1949-01-11 第4回国会 参議院 法務委員会 閉会後第7号
○委員長(伊藤修君) その高橋会を、終戰当時からやつていらつしやらない高橋会を本件が始まつた頃からしばしば開かれておる、その回数は三月の初めに小林方で中野、國宗、澤田、高橋、日野原、それから三月中頃にやはり小林方で中野、岸本、これは北海道の檢事長ですね。それから國宗、澤田、高橋 日野原、あなた。六月にあなたの宅で高橋、これは今の高橋博士のことでしよう。
○委員長(伊藤修君) その高橋会を、終戰当時からやつていらつしやらない高橋会を本件が始まつた頃からしばしば開かれておる、その回数は三月の初めに小林方で中野、國宗、澤田、高橋、日野原、それから三月中頃にやはり小林方で中野、岸本、これは北海道の檢事長ですね。それから國宗、澤田、高橋 日野原、あなた。六月にあなたの宅で高橋、これは今の高橋博士のことでしよう。
当時は労働社会課長でありました高橋一郎氏、この人を誘つて加えて、やはり一高会を小林方でやつております。私の始末店では、高橋一郎労働社会課長は二回行つたように始末書では申しておりますけれども、後で考えますと、高橋課長は一回であつたように思います。そういうふうなわけで一高会という仕りは、最初は石井、藤原の顔触れ、それが檢察廳関係では只今申しましたような顔触れで二回、こういう関係であります。
それで重政氏の案内によつて私と國宗局長が連れられて行きましたのが杉並の小林方であります。
それがこの小林方における飲食の最後であります。