運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login
5件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

  • 1

1957-02-12 第26回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第2号

それからエラブガの墓は将校ラーゲルでありましたが、これは、七、八年前にはりっぱにお互いが整備をして参りました。しかしながら、ソ連にわたりました労働大隊の、先ほど津守きんのお詰めありましたような状況は、これは実情であります。とうていお幕が完全にあるとは私は想像できません。ハバロフズクですら三カ所見せないのであります。当然われわれが前から要求いたしましたから見せるべきでありますが、どうしても見せない。

木下秀明

1953-12-12 第19回国会 参議院 厚生委員会 第3号

自分たちも四八年に自分は初めから将校ラーゲルにおりまして、ラーダ、タンボフ州のラーダ、それからカザン、これはタタール自治共和国の首都です。それからエラブカというようなところを廻つて参りまして、四八年に来た頃にはハバロフスクに来てびつくりしたような状況にあつたのですが、刑を受けましてからそういうふうなハバロフスクに前からありましたような機運というようなことは全然ありません。

大原一夫

1950-04-28 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第21号

淺岡信夫君 更に先程二十年の十二月二十四日、ハバロフスク十分所将校ラーゲルで十分程近衞文隆君とお話になつたということでありましたが、そこで近衞文隆君とはどういうふうな話をその十分間になされたか、簡單でよろしうございますから、御記憶があれば、それを御証言願いたいと思います。

淺岡信夫

1950-02-06 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第10号

ところがその後において彼は批判されまして、そこに不純性の何物かがあつたといつて彼は遂に、その地区における委員長までやつておりましたのが、ソ側徴罰隊に送られまして、当時私が変転して行つた将校ラーゲルとその分所一緒になりましたときに、彼はいわゆる前職者、憲兵、特機或いは高官関係、その人達と一緒強制労働を十二ケ月やらされておりましたのでございます。或いは十九地区におきます中西という人でございます。

高橋善雄

1950-02-06 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第10号

大佐が八十名、中佐が七十名、少佐が百五十名という厖大なる関東軍の中心的な将校ラーゲルであります。そこで私は翌年の、四十七年の二月一日から十月の十五日まで、そこのラーゲルの日本人の団長として勤務さして頂きました。当地へ帰還早々、私の親戚の者が「ウラルを越えて」という本を見せて呉れました。

種村佐孝

1950-02-06 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第10号

ここは将校ラーゲルでありまして、先程種村さんも言われましたが、あとから種村さんがラーダというところに一緒にここへ移つて来ました。多いときには一万近くの将校がおりました。それで私は一九四八年へ昭和二十三年の七月ここから移動しまして、ハバロフスク行つたわけであります。

板垣正

1949-12-24 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第6号

赤化運動、あれに彼らロシア側の思うように行かんというので、その命令で以て将校個人の立場として転々といたしまして、コムソモリスク地区穆稜に参りましたのは、私一人の個人として、懲罰ラーゲル或いは将校ラーゲル或いは一般ラーゲルというものを転々といたしまして、その間余り柵外に出たことはありません。

岡本良藏

  • 1