1983-05-16 第98回国会 参議院 決算委員会 第12号
一九五三年—五九年の間、対ソ諜報活動に従事した経歴の持ち主である。バロンは、昨年十一月のリーダーズダイジェストに「反核平和運動とKGB」というレポートを書いていますね。このレポートは、KGBが反核運動を操っているとバロンさんは主張をしているわけです。
一九五三年—五九年の間、対ソ諜報活動に従事した経歴の持ち主である。バロンは、昨年十一月のリーダーズダイジェストに「反核平和運動とKGB」というレポートを書いていますね。このレポートは、KGBが反核運動を操っているとバロンさんは主張をしているわけです。
日本はソ連が攻めてきて三日間しか戦っていないのだから戦犯はいない」 一代表「戦犯はありえないといわれますが、私たちの夫は満州でソ連に対してスパイ的な行動をしてきたことを知っております」 一代表「私も主人が対ソ諜報をしてきたことを知っております」 一代表「南方にいたら憲兵や私たちのような特務機関であった夫は殺されていたかも知れません」 寺岡氏「戦犯というものを認めるような留守家族とは自分
兵でございましたが、仕事が諜報関係でございましたので、対ソ諜報工作の罪名をもって、ソ連陸軍刑法によって十年の刑を受け、豊原刑務所に入れられ、同年十一月、同刑務所におきまするところのソ連軍の将校、下士官、兵にしてソ連陸軍刑法によって処罰されたるソ連囚人とともに、大泊港より貨物船の船底に入れられてウラジオストックへ向けられました。ウラジオにおいて監獄の監房に約一カ月半。
かつてソ連からの復員者が引揚げ当時、舞鶴で米軍機関によつて厳重な取調べを受け、その後平和な市民生活に入りました後においても、たびたび出頭を命じられる、場合によつては拷問に類した取調べを受ける、さらにはなはだしきに至つては、対ソ諜報活動に協力を求められたという事例も少くないことは、すでに国民周知の事実であります。
しかもそれが引揚げ当時にさかのぼるようなことも言われておりますから、私は、舞鶴あたりで、そういう米軍の関係者、——あるいは日本側の関係者もあつたかもわかりませんが、そういう審問というか、尋問というか、いろいろな働きかけがあつて、それがあるいは米軍によつて対ソ諜報機関の人として利用されるというようなこともあつたのじやなかろうかと推測する。
調査の内容としましては、対ソ諜報の容疑、二番目には、反共、反ソ宣伝、または反ソ、反共団体の編成指導というような二つの容疑者として取調べを受けました。最初ソ軍の憲兵、すなわMVDが一名で調べたのでありますが、私の言うことが一応筋が通つておるし、彼らの要求に対して絶対に肯定をしないので、とうとう三人の憲兵が出て来まして、一人は拳銃、一人はナイフで私をおどしつけました。
それから戰犯として、調査の対象として取上げられておるところの同胞は、主として対ソ諜報容疑者、あるいは満洲の国境におりました憲兵、特に諜者の検束をやつた憲兵諸君、作業違反、忌避者、反ソ、反共の分子とにらまれて宣伝をする者、終戰時におけるところの対ソ謀略団体、特に奉天におきますところの王さん部隊、最後に思想謀略団体として非常に注目をされていたところの、いわゆる満洲の協和会会務職員というようなものに対して
今度帰り得たゆえんのものは、私は結局調査内容は、半分は前職者の容疑者、すなわち満洲にあつて、対ソ諜報をやつておらなかつたか。半分は反動分子、反共分子として、一つの団体を組織し、そうして大木という委員長がおりましたが、これに対するところの暗殺事件をお前は計画しなかつたかというような、ありもしないことさえ言いかけて来たことがあります。