2017-02-08 第193回国会 衆議院 予算委員会 第9号
ただ、その後、明治五十年の後は、御承知のとおり、寺内内閣の後は原敬首相が誕生している、佐藤栄作首相の後は田中角栄首相が誕生している、いずれにしても奥羽越列藩同盟側に総理が移っているわけでありますから、ポスト安倍も、長州ではなくて奥羽越列藩同盟の地域ということであれば官房長官、石破先生には申しわけありませんが、私も対象者であるのかなと。 私自身は、一九六八年に生まれています。ちょうど明治百年。
ただ、その後、明治五十年の後は、御承知のとおり、寺内内閣の後は原敬首相が誕生している、佐藤栄作首相の後は田中角栄首相が誕生している、いずれにしても奥羽越列藩同盟側に総理が移っているわけでありますから、ポスト安倍も、長州ではなくて奥羽越列藩同盟の地域ということであれば官房長官、石破先生には申しわけありませんが、私も対象者であるのかなと。 私自身は、一九六八年に生まれています。ちょうど明治百年。
〔委員長退席、大原(一)委員長代理着席〕 大正七年九月寺内内閣に代りて原内閣成立し、同内閣は同年十二月開会の第四十一回帝国議会に大正八年度予算案を提出せじが、其の中、国債償還繰入額に関しては、前内閣の方針を踏み、之を三千万円に減縮することと為したり。
たとえば、軍縮を主張した宇垣陸相がそれを理由にして——あのときは寺内内閣ですか、私も覚えませんが、鳥取県の三朝温泉に来まして、宇垣陸相が総理の指名を受けましたけれども、当時の陸軍が入閣を拒否した、そのために快々として楽しまず、三カ月ぐらいいたのであります。
寺内内閣が一挙に倒れたのも、滑川の遠洋漁業に行く漁民の奥さんたちが立ち上がったからです。米がないのではないのです。独占資本の買い占め、値段のつり上げです。日本の危機はいま迫っておるのです。そういう点において二点ほど質問いたします。 倉石さんは一九二九年の世界経済恐慌のあらしの時代、われわれと同じくイギリスにおったはずです。あの苦悩を体で受けとめておるはずです。
あのビリケン寺内内閣は、長州軍部全盛の期においてシベリア出兵をやって、大正デモクラシーの怒濤の中に倒すことができなかったが、滑川の女性の抵抗の中に、全国的な食糧暴動を押えるために戒厳令を布いたが、ぺちゃんこになってしまいました。
米の問題を一歩誤をと、シベリア出兵をやって、あれほど出兵反対、寺内内閣打倒の国民の声を受けながらも微動だにしなかった官僚、軍閥の政府が米騒動で一挙に戒厳令をしいて、寺内内閣は吹っ飛んじまったじゃないですか。昭和七年二月九日井上準之助が殺されたときに、あの暗い谷間の時代に、東北の農民が娘売りまでしなければならぬという背景を基礎に、茨城の農村の青年がテロに出たじゃありませんか。
大体官僚なり軍閥の内閣がいつもぶっつぶれることは——寺内内閣がつぶれたときはシベリア出兵であれほどたたかれてもつぶれないで、米騒動でもってつぶれたのです。こつ然として起きたのです。それはやはり私は非常な教訓にしておかなければ、忘れたころに災害はくるんですから、大体ことしは令害がくるというのはだれでも見ておるのでして、北海道はすでにそれにおののいております。
農林次官も来られませんけれども、大口長官にひとつ聞いてもらいたいと思うのですが、実は私どもの記憶に新たな問題として、大正七、久年に、寺内内閣のときに米騒動というのがありまして、これは御承知のように、その当時農商務大臣が仲小路廉という人でしたが、米が四十八銭になって非常に問題になったのでございます。そこで、こういう問題を思い出すと、米価というのはいかにむずかしい問題かということがわかるわけです。
大正五年に寺内内閣、次の原内閣、田中内閣、そして満州事変から日華事変までの高橋蔵相の公債政策のあとを振り返ってみるとき、私たちはこの歴然たる事実に面をそむけざるを得ないのであります。私どもはこの点について、本委員会でもしばしば歯どめ論議について政府の見解をただしましたけれども、単なる、市中償還その他というようなことで歯どめがきくものでないことは、これまたきわめて明らかであります。
かつてわが国には、第一次世界大戦が終末に近づきつつあるころ、講和会議に対処する重要外交案件につき国論を統一するために、大正六年、寺内内閣当時、臨時外交調査会が設立されました。また、近くは昭和三十五年七月、池田内閣成立後、閣議決定により、外務大臣の諮問機関的性格を持つ外交懇談会が設けられました。
ところが、ちょうど、この大正六年三月十日、横浜港に着いたときは、寺内内閣の衆議院解散二日前だったそうでありまして、大隈さんにあいさつをすると、その場で衆議院に立候補を勧められ、大隈侯からステッキ一本と金一封を渡され、総選挙に福島県より立候補することになったとのことであります。これは三十二才の春のことであります。
大正六年、寺内内閣のもとに置かれた臨時教育会議は、学校教育の中に軍事教練を持ち込んだのであります。昭和十二年、林内閣のもとに置かれた教育審議会は、国体観念の徹底と国民精神の作興の方途を答申し、その結果、国民学校、青年学校の誕生となり、学校はあげて皇国臣民の練成道場となり、よりよい消耗品である人間弾丸の製造工場と化したのであります。
現に私も資料を持っておりますが、寺内内閣の米騒動のときに、上原元帥のごときは、最後まで軍隊を出すことに反対しておる。そうして警察から言われてしかたなくて出した。それは明治憲法のもとにおいて、軍閥専制政治の時代においても、軍隊は非常に慎重にやっておる。
大正六年大学内部の紛争に端を発した同僚教授の馘首を不当として反対し、早稲田を去られ、大阪朝日新聞社に入社し、論説記者となられ、翌七年十月には寺内内閣のシベリア出兵に反対して、同僚記者とともに新聞社を退き、翌年同志と雑誌「我等」を創刊、その後招かれて早稲田大学教授に復帰されまし た。
たが憲法の改正も一夜にして成るものではないから、憲法を改正する目的をもつて、目途をもつてその準備会あるいは調査会を開くということをはつきり認めたんだ、また外交調査会も、理想としては各党派を超越して、調査会を開くか、あるいはかつて寺内内閣でやりました政府部内に外交調査会というものを置いて、朝野の練達堪能の土を集めて協議をするというようなことにするのが理想であるけれども、さしあたつては自由党内でそういうことをやるということを
或いは米騒動、寺内内閣は即時辞職をしておる。五・一メーデーのごときは一千名に余る日本国民が怪我をしたり死んだりしているのに対して、政府は何ら責任を負うことなく、恬然として破防法を強行して来て、そうして昨日破防法は委員会で十対四で否決されておる。当然、ここで私は内閣は総辞職をすべきが当然である。
たとえばここの公聴会に出て参りました山根公述人が述べておりますように、大正七年寺内内閣のときに、米騒動に関して大阪毎日が「白虹日を貫く」と書いた。
一つの例を申し上げますと、大正七年の米騒動のときに、寺内内閣が非常に国民から指弾されまして、とうとう軍隊まで出るというような騒動を起しましたが、あの時分に大阪朝日新聞が論説において「白虹日を貫く」という文字を使つた。
もう一つは過去の例で、たしかあれは寺内内閣か何かのときに、外交審議会というものをつくつて、各党の首領に参加することを求めた。そのときにたしか憲政会の加藤高明氏にも求めたにもかかわらず、政府の行政責任を野党が分担する必要はないという建前で、入られなかつた前例がある。それがもしこういう政府の行政機関について、行政責任というものを分担される建前で入られるというならば、それこそ挙國一致の内閣の構成になる。