2002-04-08 第154回国会 衆議院 決算行政監視委員会第一分科会 第1号
平城天皇陵は、元禄の時代にはヒシアゲ山に一度治定をされたわけでございますけれども、この陵が二重堀を持っておりました関係で、幕末になりまして、今度は寛政でございますが、寛政年間に、蒲生君平が年代に合わないという指摘をいたしまして、それを受けまして、安政の陵改めの段階で、ネジ山、現在の平城天皇陵を考定をし、幕末の修陵の際に、修陵というのは陵を修復する際に、現在地を平城天皇陵として正式に治定をしたわけでございます
平城天皇陵は、元禄の時代にはヒシアゲ山に一度治定をされたわけでございますけれども、この陵が二重堀を持っておりました関係で、幕末になりまして、今度は寛政でございますが、寛政年間に、蒲生君平が年代に合わないという指摘をいたしまして、それを受けまして、安政の陵改めの段階で、ネジ山、現在の平城天皇陵を考定をし、幕末の修陵の際に、修陵というのは陵を修復する際に、現在地を平城天皇陵として正式に治定をしたわけでございます
実際に、寛政年間からもう二百年も続いているという歴史のある産地でもあるわけですが、この地域に参りますと、播州織の仕事に携わっている人の中には難聴になっているという人が珍しくないというぐらい、毎日、がちゃがちゃという音が響き渡っていたものでございました。
それからまた、これにありますが、これを見ますと、七月二十八日の日本の新潟日報という新聞に出ておったが、日本の昔の地理学者で林子平という人の書いた古地図に――寛政年間ですからおよそ二百年余り前になると思いますが、この地図の中にはこれは明らかに韓国領と善いてある。これを韓国では見つけ出してきておるのであります。