2009-02-19 第171回国会 衆議院 予算委員会第八分科会 第1号
先生御指摘の第三海堡でございますけれども、これは明治二十五年から大正十年まで三十年かけてつくられたものでございまして、神奈川県横須賀の観音崎と千葉県富津岬の間にある浦賀水道の西側に、当時といたしましては世界最高レベルの海洋建設技術を駆使して建設されましたけれども、残念ながら、大正十二年の関東大震災で崩壊して暗礁化しました。
先生御指摘の第三海堡でございますけれども、これは明治二十五年から大正十年まで三十年かけてつくられたものでございまして、神奈川県横須賀の観音崎と千葉県富津岬の間にある浦賀水道の西側に、当時といたしましては世界最高レベルの海洋建設技術を駆使して建設されましたけれども、残念ながら、大正十二年の関東大震災で崩壊して暗礁化しました。
内湾ですと、観音崎から富津岬を結んだ線の内側ですと十二万ヘクタールということですね。水の容積が内湾で百八十億立方メートル、いわゆる広い意味での東京湾では五百四十億立方メートル。 こういう規模のところでありますが、歴史的に東京湾というのは江戸の発展あるいは東京の発展と同時に東京のごみ処理の、ごみの捨て場にされておった。
このうち主なものでございますけれども、浦賀水道の両岸の大半の部分あるいは富津岬周辺あるいは木更津市の地先のいわゆる盤洲干潟といいますか盤の洲干潟といいますか、そういうところであろうかと思っております。 それで、干潟の環境保全上の役割でございますけれども、干潟は干潮時に干上がるわけでございまして、非常に多量の酸素供給が得られるわけでございます。
このセンターの訓練場を千葉県の富津岬にある第二海堡につくるというようなことが言われておりますが、また、この中の説明書きにもございますが、それは事実ですか。
この間におきまして、その以前に、先ほど先生、閣議了解ということがございましたけれども、昭和三十六年にいわゆる小川構想という構想が出まして、木更津以南、富津岬を中心とする工業地帯造成計画というものが提唱されまして、それが閣議において了承されたという動きがございます。
御案内のように、川崎を中心とする京浜工業地帯におきましては、川崎ぜんそくと称されるように、被害が全市民に浸透しようとしておりますが、従来は白砂青松の海岸でありました京葉工業地帯が、いまや市川地先から富津岬までがすべて人工の海岸に変貌しております。
○政府委員(宮崎茂一君) 現在の東京湾の入り口は第二海堡、第三海堡と海堡がございまして、航路が湾曲いたしておりまして、したがいまして、まっすぐ富津岬に近いほうに一応水路を新たに掘りまして、つまり二つの航路になると申しますか、そういうふうにして航行の緩和に役立てたいという構想のもとに、現在現地のほうでいろいろ調査をやっております。
まず、事件の概要につきましては、御承知のように、去る、三十七年二月十四日に、千葉県の君津郡富津岬沖の第二海堡のありますところに米国の油送船イーグル・コーリヤ号が座礁いたしまして、燃料油を多量に流出をするという海難事故が発生したのであります。
それから、油が相当富津岬の北のほうまで流れていって、そうしてどうしてそれがノリのところに行ったということが確認できぬのかと、こういう御質問と思いますが、確かに乗り上げ事件の発生いたしました翌日の十五日に、私どもの巡視艇が調査したところによりますと、これは十二時、正午ごろの状況でございますが、第二海堡から富津岬の北のほう約千五百メーターぐらいだったと思いますが、その辺まで帯状に油が流れているという状況
それから漁民は当日すでに入っておったというのですが、富津岬の右側のほうには入った、こう言うのです。そうして青堀付近にずっと入ってしまった。一つはもう北側のほうで滞留しておった、たまっておったというのです。それが流れないであった。それで翌日、あなたが言う十五日のその風で右側に散らばった、こう漁民ははっきり言うておるのです。どうしてその点が食い違うようになるのですか。
○清澤俊英君 いろいろ言われておりますが、あなた方が富津岬の前で帯状にあったというのは、何日の日に確認せられたのですか。翌日ですか。
千葉県富津岬から神奈川県旗山崎にかけまして、十二マイルの間の防潜網は、おそらく水産委員の皆様は専門の方々でございますのでおわかりでございましようが、ワイヤー・ロープ八寸目の網を海上から海底にかけて張りめぐらしますならば、いかなる小さい魚も中へは入つては来ない。すなわち回遊魚が一匹も中へは入らないというのが実態であります。
しかしながらこの南の方には防潜網、聴音機というものがあつて、十七平方マイル投網禁止、投錨禁止、それから富津岬、旗山崎まで東西十二キロ、南北五キロばかり、この間投網、投錨ともにできません。すなわちこれは地域提供と考えるのであります。将来法的根拠を与えます上においてこれを間接被害とするか、あるいは地域提供を認めるかということで大いなる違いを生じて参るのであります。
先ず東京湾についてその実情を見ますると、昭和二十六年一月富津岬突端より旗山岬にかけて防潜網を施設されましたため、外洋より産卵のために北上回游しておりました魚類は全くその進路を断たれまして、今やこれらの魚類は激減又は皆無に等しい状態を呈しておるのであります。
○政府委員(小川原政信君) 只今御質問になりました点につきまして、昭和二十六年一月、千葉県の富津岬の突端から神奈川県旗山岬にかけまして防潜網が設けれたました、これによりましてのいろいろな漁業上の問題が起つて参つたことは十分承知いたしておるのでございます。
請願書 吾々東京湾南部海区を主たる漁場とする零細なる漁業者は、終戰後米軍による特種施設即ち富津岬第一、第二海堡間の封鎖及び浦賀水道地区の聴音器敷設等により極端なる漁業制約をうけ、生産面資材面において著しい損害を被り、ために漁業経営は破綻の寸前に追込まれて居るのであります。