2000-03-07 第147回国会 衆議院 本会議 第8号
その後、前島先生は、地元の県立富士高校を卒業の後、淺沼先生と同じ早稲田大学政治経済学部に学ばれました。そして、いわゆる安保闘争の中での青春の彷徨を経た後、昭和四十年、卒業と同時に社会党本部書記局に入られ、生涯を党にささげることとなるその第一歩をしるされたのであります。
その後、前島先生は、地元の県立富士高校を卒業の後、淺沼先生と同じ早稲田大学政治経済学部に学ばれました。そして、いわゆる安保闘争の中での青春の彷徨を経た後、昭和四十年、卒業と同時に社会党本部書記局に入られ、生涯を党にささげることとなるその第一歩をしるされたのであります。
○稲葉(誠)委員 足立区の放火事件、五十九年六月二十六日判決ですか、富士高校の放火事件、これも最終的に認められたのではないかもわかりませんけれども、ある段階では国家賠償が認められておったのじゃないですか。
○岡村政府委員 富士高校放火事件につきましては、控訴審で国側には責任は認めない、警察を所管いたしております都の側に損害賠償を命じた、こういうことであります。
○稲葉(誠)委員 そこで、その認められたものというのは、恐らく足立の放火事件と富士高校の放火事件じゃなかろうか、こう思うのですが、どうでしょうか。
○政府委員(阿部充夫君) 御指摘がございました不祥事につきましては、東京都の教育委員会におきまして、先生に別途御報告を申し上げましたように、種々調査をいたしました結果、向丘高校の場合、それから都立富士高校の場合、それからこれは小学校の教員が四谷の塾に行っているという問題等につきまして、その確証を得て処分を行ったということでございまして、都としてはもちろんこういうケースをいろいろ調査をいたしましても、
○国務大臣(谷垣專一君) 昨年の甲子園の試合におきまして富士高校が、非常にいま申されましたようなことで、感激をもって周辺の諸君から評価をされておったという事実をよく私は承知いたしております。
それから玉川学園富士高校が三十九年、大阪の向陽台高校三十九年、九州商業高校四十三年ということで、三十七年以後集団がいま申しましたその学校ができた年度年度で相当ふえております。
それから科学技術学園が一万人、それから大阪の向陽台高校というのが八千人、それから九州商業高校というのが六千人、それから玉川学園富士高校というのが二千人、この五校だけで四万六千人です。約五万人近い通信の教育の生徒がおります。
それによりますと、亜硫酸ガスでは〇・二PPMが元吉原中学というところで二十七回、富士の保健所で十三回、富士高校で十回。〇・一PPMというのは、この三カ所合計でこの五カ月間に四百五回検出をした。