特に、南阿蘇村におきましては、戊辰後、会津藩士で家老だった佐川官兵衛が西南戦争で従軍しまして戦死をしたゆかりのあるところでございまして、かなり交流をしてまいりまして、地元の方々、本当に、安否といいますか、心配であります。 まだまだ厳しい状況なんですけれども、一日も早い復興と安否確認ということで、本当に私も胸が痛い思いをしております。
江戸時代に、信州松代藩の家老の恩田杢さんという方が藩政改革の事績を筆録した書、「日暮硯」というのがあります。 さて、この上、皆々が不得心なれば、手前が役儀も勤まらず候間、切腹いたすよりほかはなく候。したがって、手間に首尾よく役儀を勤めさせてくれるも、また切腹させるも、皆々様の了見次第に候間、いかがいたし候や、皆々の所存を聞きたく候。
だって、織田信長の家老は腹を切りましたよ、平手政秀は。諫死というのもありましたよ、昔は。死にまでせぬでいいんですから、何でもうちょっと努力してくれなかったんですか。
私が昔読んだ小説の中で「孤愁の岸」という、あれは杉本何とか子さんという女性の作家だったと思いますが、薩摩藩が、木曽川だったでしょうか、長良川だったでしょうか、ここの改修を命ぜられて、平田靱負という家老がこれに従事する。
今、私の地元鹿児島、「篤姫」で全国のお茶の間をにぎわせておるところでありますが、この篤姫が活躍したよりもちょうど百年前の宝暦年間、江戸時代ですね、そのときに、薩摩藩が、御案内のように、木曽、揖斐、そして長良の木曽三川、そこの治水工事のために幕命を受けて、そして平田靫負家老以下総勢一千人に及ぶ人員が薩摩藩から派遣された。
議事録からちょっと引用させていただきますが、安倍長官が長州藩家老村田清風の名前を引き合いに出して、私の地元にも幕末の前に村田清風という家老がいまして、言わば藩内において改革を断行したわけでありますが、当時も大変批判が強く、彼は結果として必ずしも幸せな人生を送ったとは言えないわけでありますが、彼のライバルの家老はむしろ財政出動を進めたということであって、当時からどちらが当たっていたのかということが言われてきたわけでありますが
○内閣総理大臣(小泉純一郎君) 明日というのは将来ということでありますから、人によっては数年先、十年先、二十年先、五十年先、百年先といろいろ解釈できると思いますが、米百俵の精神というのは、そもそも長岡藩の小林虎三郎、今で言うと家老、首相級の人物ですけどね、明治、幕末、大変窮乏、食うものもない、困難にあえいでいた長岡藩に見舞いのお米が送られてきたと。
○国務大臣(安倍晋三君) ただいま小泉総理が感想を述べられたわけでありますが、私の地元にも幕末の前に村田清風という家老がいまして、言わば藩内において改革を断行したわけでありますが、当時も大変な批判が強く、彼は結果として必ずしも幸せな人生を送ったとは言えないわけでありますが、彼のライバルの家老はむしろ財政出動を進めたということであって、当時からどちらが当たっていたのかということが言われてきたわけでありますが
日本の武士は、どんなにお金を積まれても、あるいは家老にしてやると言われても、自分の意に染まない、恥をかかされたときには必ず恥をそそぐわけですよ。商人も、古いうちの商人道というのがあって、古いうちにはみんな家憲、家訓というのがありますよね。
それよりも、将来、立派に国の再建を期す人材を育成するために使う方法がないかといって、当時の長岡藩の家老的存在でありました小林虎三郎が多くの藩士の反対を振り切ってこの米百俵を売ってしまって、その資金を元に学校建設費用に充てたという話でありますので、私は、この米百俵の精神は教育だけじゃない、目先のことにとらわれないで、将来より良くしようとする資金に使おうではないかということを教えた逸話だと思っておりますし
時の藩士はその米を分配せよと迫ったんですが、その長岡藩の時の家老小林虎三郎は、学校を建て子供を育英すれば、今は百俵だが、やがては一万俵、百万俵になるとして、この米百俵を換金して学校の資金に充当し、そして人材を育成したわけでございます。これがいわゆる米百俵の精神なんですよ。これを総理は引用された。
ましてや、最後にお聞きをした点でいえば、千六百六人も国から地方へ行っているというのは、付け家老ですよ、これ、昔で言うと。ちょっとひどいんじゃないか、こうだれもが思っているんだろうと思うんです。
あそこは御承知のように平田靱負正輔という鹿児島の家老が五十四人も腹を切っております。幕府からは金が来ない、薩摩藩に迷惑をかけちゃいけないということで、大阪の天満屋十兵衛というのから大変なお金を借りて、そして担保に砂糖を提供したんですが、三十三名が病死をして、それで結局は家老は薩摩へ帰れずに五十四名と一緒に腹を切っております。
あれより前には、社会、政治に参画したのは有力大名、将軍家、御家老初め上級武士に限定されておったわけでございますが、それが下級武士も町人も百姓も全部社会に参画していくようになった。これが明治維新の最大の功績だったろうと思うんです。 そういったことで、あの明治の困難な時期、日清、日露の戦争を切り抜けて、日本は植民地国家にならずにこうやって立派な国になってきた。
堺屋さんは大阪がすぐ近くで、いろいろな意味で大阪の状況を知っておられるでしょうから、情報公開をすれば、言ってみれば大阪の銀主たちがもうこれ以上金を貸さなくなる、今までの古い家老たちは当然そうやって抵抗します。
ここは、例の幕末の戦争のとき、長岡藩が会津藩に味方をいたしまして、長岡藩の家老がこの道を、山道でございますが、通って、途中に何か負傷されまして命を落とされたというような、また歴史的な国道でもあるわけでございます。
その主人公である長岡藩の家老河井継之助、有名な方でございますが、出処進退の大原則にかかわる名言を、外務大臣、御存じだと思いますが、彼は次のように言っています。進むときは人任せ、退くときはみずから決せよ、と言っております。なぜやめるときに人に相談したらいけないのか。やめない方がいいと言うにみんな決まっているわけです。 したがって、例えば、宏池会の大臣の先輩であります伊東正義元外務大臣。
これをちょっと申し上げますと、明治維新のときでございますが、長岡藩の河井継之助という非常に偉い家老がおられまして、これが官軍と戦いまして会津に落ち延びるわけでございますが、これが八十里越道路を通ったと言われておるわけでございます。そしてまた、会津の殿様も参勤交代のときはここを通っていかれたという、大変ロマンのある道路でもあるわけであります。
私たちの先達に秋田藩の渋江政光という家老がおりましたが、その方は、国の宝は山なり、されどもこれを切り尽くすときは用をなさず、切り尽くす前に備えおくべし、山の衰えは国の衰えなりと、こう教えております。前と後ろをつなぎますと、国の宝は山なり、山の衰えは国の衰えなりと。