2021-02-25 第204回国会 衆議院 予算委員会第三分科会 第1号
日露戦争のときに戦時公債として一千万ポンドをイギリス政府から借りておりますけれども、その金は四十年債だったんですけれども、大東亜戦争、太平洋戦争等々もあって、返済ができなくなったのが、結論、敗戦後再契約をして、日本はそれを八十年債に変えて、一九八八年六月、たしか宮沢内閣だったと思いますけれども、それまで払い続けて返したというので、国の借金とはいえ、確実に返済をさせていただいたというので、そういった意味
日露戦争のときに戦時公債として一千万ポンドをイギリス政府から借りておりますけれども、その金は四十年債だったんですけれども、大東亜戦争、太平洋戦争等々もあって、返済ができなくなったのが、結論、敗戦後再契約をして、日本はそれを八十年債に変えて、一九八八年六月、たしか宮沢内閣だったと思いますけれども、それまで払い続けて返したというので、国の借金とはいえ、確実に返済をさせていただいたというので、そういった意味
この質問から二カ月後の平成五年六月、政治改革関連法案の協議が調わず、宮沢内閣不信任決議案が可決されました。 園田先生や私は、不信任案には反対票を投じましたが、理想の政治体制を追求していくため、武村正義先生ら総勢十名で自民党を離党、新党さきがけを結成しました。 一方、不信任決議案に賛成票を投じた自民党議員からも離党者があり、政界再編への大きな流れが生まれました。
森山真弓先生を御存じの方も、まだ御存命でかくしゃくとしていらっしゃいますが、労働省では婦人少年局長に、局長に初めて女性でなった、参議院議員、衆議院議員も務められ、環境庁長官や官房長官、そして後には宮沢内閣で文部大臣や、小泉内閣で法務大臣も務めた立派な方でございます。
○高橋(千)委員 例えば、最初に紹介した、塩崎大臣に対して初めて質問したときに私が指摘をしたのは、九二年の宮沢内閣のときの株価PKO、株価維持活動ですよね、平和維持活動をもじった表現ですけれども、あのときはまだ二兆八千億円という規模でした。この二の舞になるのではないかという懸念が非常にありますよという指摘をしました。
古くは一九七〇年代の佐藤内閣の繊維交渉に始まり、八〇年代からの中曽根内閣、半導体交渉、林産物の個別の市場交渉がスタートして、そして竹下内閣、牛肉・オレンジが決まり、そして日米構造協議、宮沢内閣、橋本、小泉と歴代内閣は続いて、現在のTPP交渉に至るわけであります。
内閣においては、平成三年、宮沢内閣の文部大臣として最年少閣僚で初入閣を果たされました。教育者の家系でもある鳩山家の一員として、祖父一郎先生も御経験された文部大臣に若くして御就任のお喜びは、格別なものがあったであろうと想像されます。
○石破国務大臣 私は、かつて宮沢内閣で農林水産政務次官というのをいたしました。森内閣で、今でいう副大臣、総括政務次官をやっておりました。麻生内閣で農林水産大臣を拝命いたしました。そのときからずっと思っているんですけれども、農業において一番大事なのは、サステーナビリティー、持続可能性をどう維持するかということだと思っております。
宮沢内閣総理大臣が平成五年の二月四日の国会で答弁されているんですが、目的は専守防衛、自衛のためでございますから、それならば自衛隊という言葉が適当ではないかというのが沿革であったと思いますと。つまり、専守防衛、当然、このときの専守防衛というのは、私は定義を総理は変えたと思うんですが、日本に対する攻撃に対して防御するというのが専守防衛なんですが、それで自衛隊、自衛。
ちょうど地方分権改革の二十年をどう見るかと、西尾先生のお話からスタートしたわけでありますけれども、ちょうどこの二十年を振り返ってみたときに、やはり、一九九三年というか平成五年の、これ宮沢内閣の最後の段階でありましたけれども、地方分権の推進に関する決議が六月の三日に衆議院で、翌日参議院という、この二つ国会決議がなされたところからスタートしたという意味は非常に大きかったんではないかなというふうに思っております
一番最初に政務次官になったのは宮沢内閣でございます。その後、森内閣で副大臣、当時でいいます総括政務次官を務め、農林水産大臣もやらせていただきました。確かに、防衛というものに対しても強い思いを持っております。長くその仕事もやってまいりましたが、同時に、農林水産の仕事も随分と長くやってまいりました。 私は、私ごとになって恐縮ですが、今から三十年前に議員になりたいと言って地元へ帰ったのです。
これについては、例えば九二年の宮沢内閣のときに、公的年金の積立金、当時二兆八千億円、株価対策に投入された株価PKO、平和維持活動をもじって価格維持活動と呼ばれたそうでありますが、二の舞になるのではというふうな指摘もあるわけです。 こういう投入の仕方というのは、やはり即効性があるけれども一時的ではないか。
例えば宮沢内閣のときに、宮沢さんが英語ができたりして反感を食らったからかもしれませんけれども、片仮名用語や英語は使わないようにという方針を徹底していましたよ。そういうふうにしていただけたらと思います。 わざとそこの、そんなにこだわることはないんですけれども、言葉というのは大事だと思いますので、きちんと使っていただくということをお願いしたいと思います。
その訴訟に関連いたしまして、当時、宮沢内閣発足直後でしたけれども、日本国政府としては、一九六五年の日韓国交正常化条約によりまして、戦中の、戦前のいろいろな問題は全て最終的かつ完全に決着しているということが明らかでありましたので、加藤官房長官から、日本国政府としてこれに対応する余地はないという趣旨の談話を発表いたしました。
これはもう御存じのように、一九九三年、平成五年の八月四日に、当時の宮沢内閣の河野官房長官が発表した、いわゆる従軍慰安婦についての談話でございました。この談話がスタートとなって、現在、世界じゅうでさまざまなことが起きておりまして、この談話についてやはりきちっとお聞きをしておかなきゃいけない、こう考えておりまして、きょうは本当に貴重な機会をいただきました。
御成婚当時、私はまだ小学四年生で、突然学校が休日になってうれしかった程度の記憶しかないのですが、成人してさまざま勉強するうちに、その御成婚の直後、自民党が分裂し、宮沢内閣の不信任決議により衆議院が解散、最後の中選挙区制度による総選挙で細川連立内閣が成立して、日本の政治が大きく変わる契機となったころだと知りました。
これも私自身が衆議院側の指定代理人となって裁判所に呼ばれたのでいまだに記憶している事件でありますけれども、平成五年、宮沢内閣が解散された直前に、当時日本社会党所属の上田哲先生が国政問題国民投票法案なる法案を日本社会党の先生方九十数名と一緒に出した。
どちらかというと、特に海外が非常に早くから、現物と先物とをうまく組み合わせることによって、例えば株価が下落しても扱う業者はもうかるような仕組みを先に実は欧米がやってきて、結果的に日本が、証券会社がまだそこまで知恵が回らなかったがために、結果として全部吸い取られてしまったという苦い経験が、私自身がかつて宮沢内閣で企画庁長官をしておりましたころに、あのバブル崩壊の直後に大変苦い思いをした。
前に自民党が政権を失ったとき、これは細川内閣ができたときでございますが、あのときも、宮沢内閣の後でバブルがはじけて大変な経済状況だったと思います。そして、今度も同じような、さらにもっと難しい状況にあるかと思いますが、そういう状況。
古くは海部内閣、宮沢内閣でも首相官邸におりました。そういう経験から多少生意気なことを申し上げさせていただくと、総理大臣たるもの、やはり国民のために身を賭するという覚悟、身命を賭するという覚悟さえあれば、総理大臣というのは何でもできると私は確信をしているんですね。
これは、一九九一年の十一月から九二年の十二月、宮沢内閣で加藤紘一氏が官房長官を務めていた時期の内閣官房機密費の会計記録の一部で、それを見ると、この期間に、国会対策費という分類で三千五百七十四万円支出されている。政治家に高級服を仕立てて贈ったり、政治家のパーティーなどへの支出が記載をされています。
○国務大臣(石破茂君) 私は自分に対する反省も込めて言っているのですが、私もかつて宮沢内閣で政務次官、森内閣で総括政務次官、また自民党でも幾つも役を務めてまいりました。最近は余りかかわり合っておりませんが、自分に対する責任も込めて申し上げれば、今委員がおっしゃったような作業は必要なのだと思っております。