1997-07-09 第140回国会 参議院 決算委員会 閉会後第2号
さらに第二番目には、当時の支那派遣軍の参謀でございます宮崎中佐でございますけれども、昭和二十一年の三月九日に飛行機で太原に参っております。そして、直接第一軍の首脳並びに先生の引用されました閻錫山にも会っております。閻錫山に対しても全員帰還の方針であるという旨を説明し、これに対して閻錫山も了解したと確認されております。
さらに第二番目には、当時の支那派遣軍の参謀でございます宮崎中佐でございますけれども、昭和二十一年の三月九日に飛行機で太原に参っております。そして、直接第一軍の首脳並びに先生の引用されました閻錫山にも会っております。閻錫山に対しても全員帰還の方針であるという旨を説明し、これに対して閻錫山も了解したと確認されております。
そういう状況だったんですが、その後、二十一年三月になりまして、南京にあります支那派遣軍の方で、太原というところにいるんですけれどもどうも第一軍の状況がはっきりわからない、ひとつ現地の情報を調べてくれ、こういうことで当時の支那派遣軍の司令官が、参謀を、宮崎中佐でございますが、太原に派遣したわけです。
加えまして、第一軍の各部隊においても部隊幹部が残留希望者に帰還について説得を続けた、これは宮崎中佐でございます。太原に支那派遣軍から参りまして説得をいたしたわけです。ここで初めてそういう事情が明らかとなりまして、第一軍の残留を希望された方々、特務団と申しますか、その方々は解散をした。第一軍は解散命令を積極的に出して、全員帰還という方針を説明したわけでございます。そういう経緯がございます。
しかし、その次の段階に参りますと、いろいろありまして、南京にあります支那派遣軍だとか、あるいは中国国民政府の方の指令が正確に第一軍に届いていなかった、そういうことがありまして、それが二十一年になりまして、支那派遣軍の方の総司令官がどうも山西軍の方の様子がよくわからないということで、総司令部の方から宮崎中佐、これは支那派遣軍の参謀なんですけれども、中佐を山西の方に派遣したんです。
その一つ二つを申せと言われれば申し上げますが、総軍で御心配になって、宮崎中佐を派遣してこられたのは、たくさんの人が残るということについて心配をせられたわけでございます。帰還の命令が出ているのに、一向その処置をとらないというので、連絡にこられたものと私は記憶しております。