2014-05-30 第186回国会 衆議院 国土交通委員会 第20号
一四六七年に応仁の乱があって、室町幕府の衰退によって細川氏と山名氏が戦って、そして動乱が始まり、戦国大名が出てきて、天下統一のために百年間以上戦い続けた、そういうイメージを持っている方がたくさんいらっしゃいますが、今、最近の新しい説においては、そのときが世界的に実は寒冷期、いわゆる小氷河期に突入していて、世界じゅうで戦国時代のような状況になっていた。
一四六七年に応仁の乱があって、室町幕府の衰退によって細川氏と山名氏が戦って、そして動乱が始まり、戦国大名が出てきて、天下統一のために百年間以上戦い続けた、そういうイメージを持っている方がたくさんいらっしゃいますが、今、最近の新しい説においては、そのときが世界的に実は寒冷期、いわゆる小氷河期に突入していて、世界じゅうで戦国時代のような状況になっていた。
私は歴史が大好きで、一番大好きなところは中国の春秋戦国時代から秦ができるまでですが、日本の歴史の中でおもしろいのは、やはり応仁の乱の後から室町幕府が衰退していくところ、いわゆる戦国時代でございます。
この琉球王朝は、天皇の支配下にあるわけでもなく、鎌倉幕府、室町幕府の支配下にもございませんでした。一六〇九年に薩摩藩によって武力征服され、一八七九年の琉球処分ともいうべき廃藩置県によって琉球王朝、琉球藩は消滅します。 琉球、沖縄は、天皇制から見ますと、おくれてきた臣民であり、化外の民であり、天皇の支配に属さない、服従しない、まつろわぬ民でありました。
つまり、楠木正成公というのは、皆さん御承知のように、室町幕府そして北朝に反抗したということで逆賊の扱いを受けておりましたけれども、しかし織田信長が天下を取って評価が一変をして、さらに徳川時代になると、室町時代には逆賊であったと言われていたのが今度は忠臣、忠実なる臣下というような評価がなされました。
これは、明治時代に首都機能を移転したとき、あるいは鎌倉幕府、室町幕府、安土城をつくったとき、日本全国がどれほど変わったか、これを考えていただければ十分かと思っております。
これを、建武の中興以降、京都に五山を移すという後醍醐天皇の御遺志がやがて室町幕府に継承せられる形になって、京都に、長安における、既に自家薬籠中のものにした北の中国の文化を基礎の基礎にいたしまして、その上に中国の南の文化を融合した、言いかえますと、室町時代において、日本は、中国における南船北馬として特徴づけられる北の文化、南の文化、その双方を室町時代に入れ切ったと存じます。
室町時代は、足利尊氏が京都の室町幕府を開いてから、織田、豊臣時代、江戸時代に入るまで含めまして二百六十五年。徳川家康が一六〇三年に江戸幕府を開いて以来、明治時代までが二百六十年。後はずっとこの東京に、都、首都が政治と経済を中心に移ってきたわけなんですが、過去の歴史を見ますと、権力がかわるときに都がかわってきた。
御承知のように、そもそも我が国の歴史は、江戸時代あるいは室町幕府がありました室町時代、鎌倉時代等、首都のあったところを時代の区分として呼ぶほど首都の意味が大きゅうございますし、また、首都の移転がその時代を変えていくという相乗効果があるんではないかという歴史観を私は持っております。
同様に、室町幕府の後半、天文時代でございますが、一五三〇年代も変わらなかった。これは、人は全くかわっておりまして、足利将軍が近江に逃げたりしておりますけれども、世の中は全く変わっていなかった。だから、やはり首都機能の移転というのは、そういったもろもろの変化をきっかけとして、ぺ−ジをめくるような効果があるというのはどうも否定できないのではないかと言われています。
ごらんの方も多いと思いますけれども、「花の乱」は室町幕府の八代将軍の妻、日野富子を主人公として応仁の乱を描く大河ドラマであります。秀吉とかあるいは大石良雄といったような人の場合はみんなもよく知っておるわけでございますけれども、専門家とか歴史的な人は別として、一般的に余り知られていないといいますか、正確な知識を持っていない時代の話じゃないかなと思うわけであります。
物の本によりますと、穂積忠彦氏などが書いておられるのを見ますと、室町幕府のころに京都を中心として造り酒屋が非常に繁栄するようになりまして、幕府はこの造り酒屋に特権的な保護を与えるかわりに、酒屋役という名の税金を取り立てるようになったんです。これが最初であります。
これは世人に「室町幕府とよばれている。」、こういうふうに書いてあります。これは私、子供の中学校の教科書を現に見たわけです。あるいはまた、「一八五三年、四隻の黒船が」「浦賀の沖に突然姿をあらわした。」そして、「アメリカの使節ペリーが、」「開国を要求してきた」、こういうふうに書いてあるんですよ、いま使われている歴史の教科書は。
これは佐藤政府なんというのではなくて、室町幕府の最末期みたいなものです。こんなばかなことがありますかね。 委員長、私はこの問題で時間をとってはいやだから、これはどうですか、本人からしか聞いてないそうですから、山形新聞にも連絡をとって一そうして速記がどうなっておるか、その記事は責任あるかものかどうか、はっきりさしてもらおうではないか。
室町幕府みたいなことになっているんじゃないですかね。そう思うのです。局長が答弁しようとすると、若い課長——地元の人じゃないです、あなたのほうで特別に任命したと思われる人が、他の局長やなんかを差しおいて答弁に立つ。法律的なことは私が知っていますからといって——局長は知らないことになるでしょう。そんなことを平気で私どもに言う。
西陣と申し上げますと、皆さま御承知のとおり、いまから五百年前、室町幕府の時代にその名がつけられまして、日本で最も古い機業地でございます。京都の機織りの歴史は、それよりもさらに数百年古く、飛鳥時代に大陸文化を移入いたしました際に日本に伝えられたものだといわれておりますが、日本の工業の発祥といたしまして京都の産業となったものでございます。
ああいう室町幕府の時代にでき上つた観阿弥とか世阿弥などは、作家であつて演出家であり、自分が謡つている。こんなりつぱな芸術家などというものは、ひつくり返つても今の時代には生れて来ない。そういうことを忘れている。そこでみの観世、宝生、金剛、喜多、金春、こういう流派がだんだん滅亡に瀕しております。あれを踊るのもたいへんです。一つの舞いをするのに六箇月ぐらいかかる。