1978-04-18 第84回国会 衆議院 本会議 第23号
そして、高等文官試験に合格された後、翌六年内務省に入省、群馬県警察部長、内務省外事課長などを歴任された後、昭和二十年には警視庁官房主事として、終戦前後の混乱期にあって、首都の治安確保に御苦労を重ねられました。 戦後、官界を去られた先生は、雌伏七年、この間中小企業経営の苦悩を身をもって体験されたのであります。
そして、高等文官試験に合格された後、翌六年内務省に入省、群馬県警察部長、内務省外事課長などを歴任された後、昭和二十年には警視庁官房主事として、終戦前後の混乱期にあって、首都の治安確保に御苦労を重ねられました。 戦後、官界を去られた先生は、雌伏七年、この間中小企業経営の苦悩を身をもって体験されたのであります。
一たん内閣統計局に在職した後、間もなく警視庁に移られた先生は、警察署長をはじめ、監察官、刑事課長、官房主事、警務部長等を歴任しましたが、その間、どんな問題に遭遇しても、また、どんな地位にあっても、その仕事ぶりは目をみはらせるものがありました。当然、その将来が大いに嘱目されていたのでありますが、大正十二年十二月、突如、虎の門事件が起こり、先生は、その責めを負って退官のやむなきに至りました。
○宮川政府委員 従来官房主事の制度でありますために特に支障があったというのではございませんが、やはり官房主事と申しますと、先ほども触れましたようにいかにも税関長なり印刷局長の私設秘書のような、秘書、人事だけをやっているような感じを受けますので、これを総務部という近代的な組織に改めまして、業務全般の総合調整をやるにふさわしい機構にいたしたい、かような趣旨に出たものでございます。
また第一線税関の総務部につきましては、これは先ほども申しましたように現在官房主事という制度がございますが、この官房主事と申しますと一見税関長の秘書役的な存在のように聞こえますので、税関業務の増大に伴いまして税関業務全体の総合調整をはかり、なお人事面の管理も十分いたしますために、官房主事を改めて総務部を置く、こういう趣旨のものでございます。
たとえば県庁でいいますると官房主事であります。私はその役目をやったことがあるのですが、そういうことを考えますと今の答弁なんかはなっていないと思う。そういうようなことを考えるだけに、私が先ほどから申し上げておりました機構の一元化ということが非常に大事になってくるわけであります。
裏門には正力官房主事」——正力国務大臣のことです。「正力官房主事、表門には井平駒込署長が多数の警官を指揮して厳戒していたが、民衆が退出してくるとみるや、でてくる民衆を誰彼とかまわず寄って集ってなぐる、ける、言語に絶した暴力をあびせたうえ、かたっぱしからくらやみを幸に検束しはじめた。たちまち六〇名が拉し去られた。
これは道路が大事だというので、スコツプを持つて行つたのでありますが、そのあとで私は友人である京都府庁の官房主事に聞いたが、陸軍の方が頭がよかつた、それは着物が大事だの何が大事だのと言つて持つて行きましても、自由経済では値が上るから、日に夜を継いで入つて来るから、持つて行かなくても自然にととのう。
官房主事が来られまして、それで大体あれしておるわけです。
岡部 常君 委員 大野 幸一君 大畠農夫雄君 遠山 丙市君 松井 道夫君 羽仁 五郎君 委員外議員 岡田 宗司君 証人 消 防 総 監 塩谷 隆雄君 元警視庁特高部 長 岡崎 英城君 元警視庁警視総 監官房主事
当時、品川警察署長でありましたところの土田さんより、警視庁官房主事の官舎が戰災に会つて困つておるから、丹羽さんに家を貸して貰えないかと依頼されまして、私の住んでおる住居を明けてお貸しいたしまして、土田さんとは前から知合の関係でございましたので、土田さんの顏を立てるためにお貸ししたようなわけなんであります。
○証人(日野昇君) 丹羽さんは、この方はやはり戦時中の官房主事です。官房主事の下に私は情報課員として使われたことがあります。ですがこの方は終戦以来お目にかかつたことは一回位あるような気がしますが、それ以外はありません。門叶総監は、総監のときに私は直接お目にかかつたことはありますが、辞められてからは後はお目にかかつたことはありません。秋山さんは、この方は直接上官であつたことはありません。
○証人(日野昇君) 上村健太郎さん、この方は戦時中官房主事をしておられまして、私はその官房主事の下に情報課員でおつた関係で存じ上げておるのであります。
○林(百)委員 あなたはかつての元警視総監の官房主事をやつておつた丹羽喬四郎、元内務省保安課長をやつておつた岡崎英城、これを御存じですか。
それから鹿兒島縣の事務官、それから奈良縣の警視、北海道の警視、その後警保局の事務官、それから宮内書記官、それから警視廳の官房主事、内務書記官、それから警視廳の特高部長、それから内務省の書記官にもう一度帰りまして、海軍司政長官、それからその後東京都の防衞局長、最後が内務省の警保局長であります。それで昭和二十年の八月終戰と共に退官いたしました。
なお警視廳管内においてよからざる官吏のあることを私は某方面から在任中に資料を得ましたので、特にその資料をもとに、警視廳の當時の官房主事に嚴重な調査竝びに不都合なかどがあれば處分するよう要求したことが數囘に及んでおります。先ほど申しました強引に反對を押し切つてやつたというのはかくのごとき事實を指したのであると御諒承をお願いいたします。」これが當時の世耕君の發言の趣旨であります。
なお警視廳管内において、よからざる官吏のあることを私は某方面から存任中に資料を得ましたので、特にその資料をもとに、警視廳の當時の官房主事に嚴重な調査竝びに不都合なかどがあれば處分するよう要求したことが數囘に及んでおります。先ほど申しました強引に反對を押し切つてやつたというのは、かくのごとき事實を指したのであると御諒承をお願いいたします。