1978-02-21 第84回国会 参議院 外務委員会 第3号
それから、ヤルタ協定後に中ソ友好同盟条約が結ばれた際においても、一九四五年の八月十四日まで宋子文はモスクワに行って引っ張られたはずであります。
それから、ヤルタ協定後に中ソ友好同盟条約が結ばれた際においても、一九四五年の八月十四日まで宋子文はモスクワに行って引っ張られたはずであります。
○戸叶武君 それじゃ時間がないから、最後に一つやりますが、やはりダレスさんがアメリカ外交で反省した言葉の中に、マーシャルが中国へ乗り込んで行って、あの最終段階において失敗したのは、中国がヤルタ協定を——戦時中において軍事謀略協定をソ連と取りつけて、中国の主権をないがしろにして、しかも宋子文がダレスさんのところにかけつけてきたときに、ルーズベルトの周囲の人に聞いてみても、そういうことはないと言う。
その義兄の宋子文を財政部長にして、蒋一家で国の政治と軍事と経済を握って、そこに汚職が生まれてきた。骨の髄までくさって、軍隊を持ちながら、党を握りながら、共産党に負けた原因がある。私は決してこれは私情を差しはさんで申し上げておりません。あの蒋介石の負けたのをこの目で見てきて、日本に帰ってきて、しみじみ見たのがこれなんです。保守党を愛するがゆえに、岸さんを思えばこそ言うのです。これではいけません。
ところで国民政府の実態は、蒋介石一門の軍閥と宋子文一家の財閥との結合による独裁政権であり、非民主的な政権であることは世界周知の事実であります。(拍手)而して台湾亡命後の施政の実情はどうかと申すと、無策無方針、亡命者のボスどもと貧官と汚吏が結託して、人民の膏血を絞ることに狂奔專念する有様であります。そのため昭和二十二年二月十八日には暴動が起りまして、三万五千人の死亡者を出しているのであります。
南支那では廣東に宋子文廣東省首席が、河南の綏靖総司令に同時に任命になつておりまして、その配下は保安軍十五箇師、約十五万の兵力かと考えられるのであります。
これに対しまして廣東省の主席であります宋子文氏は、これは中共の分子に煽動された暴徒がデモを利用して暴行を行つたのだという声明を出したのでありますが、米國の通信員その他の電報によりますと、反英運動ではあつたけれども、反米的のところは一つもなかつた。從つて中共の策動であるかどうかは非常に疑わしく、むしろ國民運動、國権回復運動という色彩をもつたものではないかという見方が、かなり多いのであります。