2016-02-24 第190回国会 衆議院 財務金融委員会 第6号
やはり目標というのは、随分その当時としてはえっというようなものでも、現実問題、所得倍増というのは、実際、池田内閣の間にほぼ達成されて、現実的になったのは佐藤内閣のときにもっとはっきりしましたけれども、あのときも寛容と忍耐とか、当時、安保騒動の真っ最中が終わって、六〇年の安保、昭和三十五年の後でしたから、世の中かなり喧騒としていたんですけれども、寛容と忍耐とか、何か坊さんみたいなことを言う政治家が出てきたんだなと
やはり目標というのは、随分その当時としてはえっというようなものでも、現実問題、所得倍増というのは、実際、池田内閣の間にほぼ達成されて、現実的になったのは佐藤内閣のときにもっとはっきりしましたけれども、あのときも寛容と忍耐とか、当時、安保騒動の真っ最中が終わって、六〇年の安保、昭和三十五年の後でしたから、世の中かなり喧騒としていたんですけれども、寛容と忍耐とか、何か坊さんみたいなことを言う政治家が出てきたんだなと
戦後日本の国の形が大きく変化した契機は、一九六〇年のいわゆる安保騒動でありました。 当時の岸信介首相は、憲法、特に九条を改正して、国軍を持つことを宿願としておりました。そのための第一歩として、安保条約の改定を図りました。これに対して、空前の規模の抗議活動が起こり、数十万の市民が国会や首相官邸を取り巻きました。
特例秘密保護法に関しての被害妄想に駆られて、これが通ると憲兵が徘回し国民を取り締まるような嫌な時代がやってくるという流言飛語が、しかも大新聞の一面に掲載するような、総理の御祖父の岸総理の時代の一九六〇年の安保騒動に似たヒステリー現象が国会の周辺でも起こっておりますな。
それともう一点は、過去の歴史を振り返っても、大衆の圧倒的な世論を背景にした事柄が後世になってどうだったのかという、安保騒動なんかは典型的な記憶に新しいところでございますけれども、私は大衆迎合主義、ポピュリズムの横行を招くと。
先ほど私ごとを述べさせていただきましたけれども、私がまだ二十前後のころというのは、安保騒動の余韻がまだまだ続いておりまして、軍事問題、あるいは安全保障の問題、あるいは安保の問題、それを自由に論議することが許されない、そういう雰囲気があったわけであります。すなわち、これはタブー視されていたのであります。しかし、そういうことが果たして健全であると言えるかというと、私はそうは思わないのであります。
同時に、破れ傘というのは、実は傘としての機能を持たないのに、金属としての柄と骨を持っているということは、それこそ梅雨どきの安保騒動があったころには、凶器準備集合罪の一つの要件として、そういう危険な傘を持っていること自体も該当するというふうに考えられた時期もあったわけでございますから、そういったものを持っていること自体が諸外国からいろいろな不信を招く、そういう思いもあるわけであります。
私が思うのは、治安出動というと、かつて、古い話ですが、私が昭和三十五年に防衛庁へ入ったときはちょうど安保騒動、樺美智子さんが亡くなる、そういうころでありまして、治安出動一歩手前まで赤城宗徳長官が決断されると。駒門の方ではもう戦車がエンジンを吹かしておったと、こういうような状態だったわけですね。 そういうことから考えると、治安出動というと大変大きなことだと。
大学入学と同時に六〇年安保騒動に巻き込まれましたが、ちょうどそのころ、世界平和、議会制民主主義の確立、福祉国家の建設を党是とする民社党が誕生。胸をときめかせて早速入党。
そういう意味におきまして、日本も国力が第二位になりましたし、それから、安保騒動、闘争といいましたですか、ああいうのがあったころ、私はまだ小さいころで、テレビなんかで見ていたことを覚えていますけれども、やはりああいう五十年間の過去の日米安保の中で、今おっしゃったように冷戦構造も崩壊し、アジアのまた経済状況もよくなり、日本の国力も大きくなった。
平和論、または平和主義と現実主義という問題で言いますと、日本的経営とか縦社会が言われたころの一年前、昭和三十八年、一九六三年、いわゆる安保騒動から三年目ですか、これは、高坂正尭氏の「現実主義者の平和論」というものが大きな役割を果たしたわけです。これは、いわゆる一国平和主義あるいは非武装中立を言い立てるだけで何もしないということでは、かえって説明ができない。
ただいまの石川先生の話にも直接関係する面でございますが、やはり日の丸・君が代は明治からずっと続いておったものでございますから、先ほど来のお話で、一九四五年を境とする国家としての継続性の問題との議論がいろいろあると思いますが、私もちょうど安保騒動のころの学生でございましたので、そういったいろんな議論というものはいろいろな形で耳にしたこともありますし読んだこともあるわけです。
私も実は、安保騒動というのも小学生のころに経験しておりまして、とにかく町へ行くと、学生さんたちがみんな安保反対、安保反対と言って大騒ぎしているのですね。 先ほどの大学紛争もそうでございますが、いわゆる戦後の思想界といいますか言論界といいますか、戦後の言論をリードしてきたいわゆる進歩的文化人という人たちがいるわけですね。
以降、その条約そのものに、不備といいますか、そういうものがあるということで、一九六〇年の安保条約の改定というのが行われたわけでございまして、先般も本会議で玉沢議員も、当時私も学生でありまして、かの有名な安保騒動といいますか、そういうことを目の当たりに実は見てまいりましたが、私としても、あの当時から考えまして、事前協議の項目を挿入したり、アメリカが日本の安全保障に責任を持つという要項を入れたということでは
六〇年代は御存じのように六〇年安保騒動というものがあったわけでございますし、安保騒動を取り仕切ったのは若者たちでありました。当時で言えば大学生であったのかもしれません。しかし、その大学生たちが目指した、あるいはこの国会の周辺へ集いました者たちが目指したのは、日本のこれからがこれでいいのかというかなり大きな視点でいたような気がします。
昭和三十五年、安保騒動で大揺れして国論が二分化したとき、.その後池田内閣が誕生しました。池田内閣は所得倍増計画を提唱されて、多くの国民に期待を寄せられたという現実があるわけです。
聞きましたら、安保騒動のときに大量に採用された、俗に言う団塊の世代という方がたくさんいらっしゃる。現場の警察官の皆さん方のお話を聞くと、自分たちは頑張ってやっていると。しかしながら、十年たつと皆さん定年退職。
このころを考えてみますと、昭和三十五年というと、例の岸内閣の安保騒動からやがて池田内閣の高度経済成長政策に移り変わっていく時代。昭和二十七年の占領が解放された後の日本的な行政の制度をいろいろな形でもう一遍見直さなければならないという時代の要請の中で、私は行政相談制度というものも同じように問題にされてきたんだという経過を感じている次第であります。
しかしこれは、それから四年たって安保騒動が起きると、これはもう終わったというふうなことで、そういうようなことでは困るんであって、今度の新政権は共産党を壊滅させて独裁的な全体主義的なやり方でなくて法と正義でやるとおっしゃるのでありますから、それは法と正義でその原点をもっと確認し合うことが大切だということが基本であって、終わりでもあり基本でもあるんです。
ソ連の指導者にこの前会いまして、これは皆さん名前を知らない方だと思いますが、安保騒動のときにどういうふうな態度をとったかということ、なぜ五六年の協定を六〇年に否定したかということ、その背景について聞いてみたところが、実はあそこで革命が起きて日本は親ソ政権ができると思ったといみじくも言った人がありますが、あるいはそうだったのかなという感じもしないではありませんでした。
それから九年後、昭和三十五年、一九六〇年、この安保条約は岸総理とアイゼンハワー大統領との間で改正が合意されまして、そして名前もそれまでの安全保障条約から、今言われている日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約というふうに変わったわけですが、そのときいわゆる六〇年安保騒動という大変な騒動がありまして、私は警視庁の警務部長として毎日この周辺であの大デモの中いろいろやったわけです。