2021-05-21 第204回国会 衆議院 安全保障委員会 第4号
それから六〇年代の安保闘争にとエスカレートしていくわけですね。そんな中だったんですよ。最後のとどめが砂川闘争。そんな中で沖縄に海兵隊がやってきたという社会的な情勢ですね。 これが直結していたかどうかというところがまだはっきり学説的に分かっていないところでありますけれども、そういったことを、多分そうじゃないかと推測するような論文はたくさん出ております。
それから六〇年代の安保闘争にとエスカレートしていくわけですね。そんな中だったんですよ。最後のとどめが砂川闘争。そんな中で沖縄に海兵隊がやってきたという社会的な情勢ですね。 これが直結していたかどうかというところがまだはっきり学説的に分かっていないところでありますけれども、そういったことを、多分そうじゃないかと推測するような論文はたくさん出ております。
五〇年代から六〇年代にかけて安保闘争があった。その安保闘争の中で基地に対する感情が激しくなっていく。政治的な判断なんですよ、政治的な打算です。そこに、地理的優位性も、抑止力の議論も、恐らくなかったでしょう。あるはずがないです。 アメリカが決めて、アメリカが持ってきて、それで、少女暴行事件があって、慌てて防衛白書に沖縄の地理的優位性を書き込んだんです。それが実態であります。
それから、総理、勉強をちょっとしておりましたら、安保闘争のとき、樺美智子さんですか、この方が、東大の学生、お亡くなりになったということでございました。その後に、総理のおじい様でございます岸信介総理が辞職をされた、いわゆる総辞職をされたということなんです。ですから、恐らく、岸総理、当時の総理は、この一人の命の大切さ、重みというものをお感じになったんじゃないのかなと思います。
また、さかのぼりますと、まさにおじい様が苦労された安保闘争、このときもどうも中止になっているようです。そして、阪神・淡路大震災。 ですから、安保闘争、阪神・淡路、東日本大震災、ミサイル対応、まさに国家を揺るがしかねないような危機において中止されたわけです。それだけ大事な、伝統ある、はえある行事だったんでしょう。
一九六〇年の安保闘争で、市民が岸政権を退陣に追い込み、憲法九条の改正を阻止したことで、日本は戦争に巻き込まれずに済んだのであります。 このように、二十世紀後半に非常に大きな効果を発揮した日本的平和路線が二十一世紀にも有効かどうか、今問われております。 確かに、この二十年間の国際環境の変化は大きいものがあります。
一方で、ある生物の先生は授業のほとんどを安保闘争ですとかあるいは家永教科書裁判の話ばかりして、私は高校のときの生物をほとんど覚えていないんですけれども、だからといってそういうことに感化されたわけでも何でもなくて、一方で淡々とお話をされた方のお話の方がずっと心に残っているわけです。
総理には、安保闘争などのみずからの幼少時の経験だけでなく、大正から昭和の初期にかけての歴史に真摯に向き合い、ポツダム宣言は当然のことながら、尾崎行雄翁や斎藤隆夫議員などの姿勢をしっかりと学ばれんことを強くお勧め申し上げ、質問を終わります。(拍手)
国民投票に関する批判には、戦後の我が国における安保闘争の経験や、冷戦構造下の保革対立の中の例えば市民運動などに対する抵抗から、間接民主主義の破壊という言葉で直接民主主義的なものへの批判があるだけではなかろうかと思います。 あくまで一例ですが、昨今の市民運動では、尖閣問題のデモにも原発反対のデモにも共通して見られるのは、普通の母親がベビーカーを押しながらも参加する姿であります。
十万人とか二十万人とか、六〇年安保闘争以来の人数だとも言われております。 総理は、六月二十九日の金曜日の日には、大きな音だねと言ったそうですね。先週金曜日には音から声にようやく昇格したようですけれども、私は、大変失礼ながら、政治家として極めて不遜な態度だなというふうに思いました。 国民の多くは、安全性が確認されたという説明に納得しておりません。
あなたのお父さんの書かれた本の中に、安保闘争のころですけれども、「ブントの本郷細胞のメンバーになった。」とはっきり書いてあるんですよ。だから、荒岱介が言っているだけじゃないんですよ。あなたのお父さんが書かれた本の中に、ブントの細胞に入ったということが書かれているんです。だから聞いているんです。
我々の世代は、七〇年安保闘争による学園紛争に遭遇し、多感な学生時代を過ごした世代でもあります。 私は、昭和五十八年、三十八歳で衆議院議員として奇跡の初当選をして以来、一隅を照らすを信条としています。五年前の郵政選挙により、私は、自分の政治的信念に逆らい踏み絵を踏むことはできませんでした。刺客によって衆議院選挙で落選し、いったんは政治生命を絶たれました。
安保闘争の後で疲弊した、あるいは分裂した国民をまとめ上げる、そういう考え方としては非常によかったというぐあいに思っております。
きのうはたまたま江田五月参議院議長の、「私にとっての日米安保」というところで、安保闘争で自民党の党本部に入られて逮捕されたという記事が出ておりました。大変興味深く読ませていただいた。後に処分保留で釈放されておられます。その後、六〇年安保、七〇年安保と節目節目があるわけでございますけれども、きょうの記事には、町村議員の当時の思い出なども書かれているわけでございます。
なぜかというと、これは安保闘争について、多分公務執行妨害だと思いますけれども、そこで逮捕されて免職になった者に対して救援をするということで、臨時の組合費を徴収するのは共済活動の範囲内だというような判例があるんです。
安保闘争なりなんなり、いろいろな波乱はあったと思いますけれども、総じて、大きな意味での日本人が成功体験を重ねた、そんな時代に多感な少年時代を送ったのが安倍総理であり、私でもあるわけです。東京オリンピックは私、小学校一年生のときで、大阪万博が中学校一年生のときですから。どうでもいい話ですけれども。そういう中で少年時代を送った、共通のいろいろな思いは多分あるんじゃないかなと思うんです。
そしてまた、安保闘争を初めとするイデオロギー闘争の一環でもあったわけで、その点は十分留意しないといけない。また、動燃にしても、これは確かにひどい人的ミスでありますけれども、やはり核燃料サイクルの技術的困難性があるのも、これはまた否めない事実なんですよね。 ところが、この社保庁の場合は言いわけのしようがない。一〇〇%人災、組織と人の問題なんですよ。これはもう言い逃れしないでください。
自衛隊の過去を振り返ってみますと、昭和三十年代の安保闘争や反戦運動など、学生や職域を巻き込んだ運動の中で、あたかも自衛隊が憲法違反の存在のように扱われたこともありました。
麻生外務大臣は、対中外交の中で、昨今の反日運動とか靖国参拝に係る日本に対する非難、批判等々が中国で盛んに行われていることに、直接は関連しないんですけれども、経済発展や民主化の過程の中でそういう騒動はあることだ、日本も過去に安保闘争や過激な学生運動があった、中国の運動もやがて落ちついていくのではないかというような非常に楽観的なとらえ方をしているようでありますけれども、私は、果たしてそのようにして楽観視
岸内閣は、御承知のように、六〇年安保闘争、大変大きな政治闘争がございました。そしてまた、当時は、三池炭鉱の労働争議でありますとか、あるいはまた数々の事件、下山事件あるいはまた三鷹事件等々、非常に騒然とした、国論を二分するような事態が起こった。また、山谷の暴動があったりして、非常に殺伐とした時代でございました。
特に、私ども自由民主党におきましては、ちょうど安保闘争の時代、もともとは左翼対策で、党の中に治安対策特別委員会という委員会を設けております。