2013-12-04 第185回国会 衆議院 文部科学委員会 第8号
第二次世界大戦中には学徒出陣の壮行会も開催をされた。そして、その後、昭和三十三年に第三回アジア競技大会を東京で開催するために現在の国立競技場が完成をし、そして、三十九年の東京オリンピックへ向けて拡張工事が行われ、今に至っている。 この国立競技場の歴史的意義というものについて、まず大臣のお考えをお願いいたします。
第二次世界大戦中には学徒出陣の壮行会も開催をされた。そして、その後、昭和三十三年に第三回アジア競技大会を東京で開催するために現在の国立競技場が完成をし、そして、三十九年の東京オリンピックへ向けて拡張工事が行われ、今に至っている。 この国立競技場の歴史的意義というものについて、まず大臣のお考えをお願いいたします。
私は、日本が戦争に負けて後、生き残ってきた、学徒出陣で行ったとか業半ばにして戦争に巻き込まれた人々やあるいは青少年たちも含めて、敗戦後、一番夢を与えてくれたのはやはり教育の現場だったと思いますね、教育の現場。 そういうことを思い出しながら、また時代がいよいよこれから基盤を整備していこうというときには、日本の近現代史を見たときに、札幌の農学校ができて、それでそこにクラーク博士をアメリカから迎えた。
日本はかつて兵員不足を学徒出陣により若い前途ある若者を戦地に行かせ、死なせるという苦い経験をしてきました。また、女性や中学生以上も軍需工場などに総動員し、子供たちを学びの場である学校から離れさせ、教育を奪ってきました。多くの子供たちを軍国少年に育てましたが、こうしたことは二度とあってはなりません。子供は戦争の道具ではありません。戦争は自衛であっても子供たちを犠牲者にします。
政府短期証券、借入金を含めた国の債務残高のGDP比は昨十五年末一三四%と、学徒出陣のあった昭和十八年度に並ぶ水準まで上昇しています。国内では依然としてデフレ期待が根強いことを反映して国債金利が極めて低い水準で推移していますので、まだまだ大丈夫だと思い込みがちです。しかし、国際金融市場では、日本国債の信用力が低いという評価が定着しています。
そういう中で、彼らは、ちょうど私どもは二十二、三歳、大学に入ったばかりで学徒出陣で出ていきましたから、本来なら前途洋々たる人生があるはず。それを戦争のためにそこで断ち切られて命を失ったと。正に無念の思いですよ。 こういうことを二度と再びやってはならないというその気持ちから申し上げるんですが、戦争というのは要するに人間が人間を国家の名において殺すことですよ、と私は本当に思います。殺す話ですよ。
資料一ページの図にごらんのように、二〇〇一年度末の国の債務残高のGDP比は一二〇%で、ミッドウェー海戦のあった一九四二年の一〇五%を超え、学徒出陣の一九四三年、一三三%に迫ろうとしております。 しかも、一九九〇年代以降は、戦前の高橋是清財政、またアメリカのニューディール政策という典型的なケインズ政策が実行されたと言われる時期よりも、急速なテンポで国債の累増が続いている。
学徒出陣で出まして、神戸に帰ってきました。焼け跡、あの状態で、マッカーサー司令部から二十一年二月、英文の原文が発表され、すぐ政府はそれを取り上げて国会にかけ、十月に通過しました。約七カ月ぐらいでこの憲法は成立したんです。私たち、学生でした。法学部の学生でしたけれども、何にもこんなことは、学校の教授が英文の憲法原案を解釈してくれた程度で、全く知らぬ間に成立しました。
昭和十九年の十月ですか、私は横須賀の海軍航海学校というところに約四百人近い予備学生と一緒に、いわゆる学徒出陣で出た同期の人と一緒に訓練を受けていた。ある日突然、総員集合、全員集まれということで、剣道場に集められました、夕方でしたが。 学生隊長というのは大佐です。その人が物々しい雰囲気の中で壇上に上がって言ったのは、おまえたちの中から特別攻撃隊員を募集すると。
既に、私立大学の学長、総長の七割に当たる人たちが、学徒出陣五十年に当たって、再び学徒を戦場に送ってはいけないというようなことを述べておられるわけですね。そういう認識を全く踏まえないで、そんな学徒出陣と結びつけるだとか徴兵制と結びつけるというようなのはおかしいというような話は、あなた方の歴史認識がおかしいと思うんですよ。
しかし、これは志願するものでありまして、これを学徒出陣、徴兵制とダブらせて議論をされるというのは、私はそれは事の本質を意図的にゆがめるものではないかと思っておりまして、そのような形の御議論はいかがなものかというふうに私は思っております。 これは志願制でもございます。徴兵制でも学徒出陣でもございません。
その一九九三年の十二月というと、学徒出陣五十年という年なんですね。この年に、約七割の総長、学長が共同声明を出しています。その共同声明は「学徒出陣五〇年にあたって」というタイトルで、 今日の高等教育の重要な部分を担う私立大学の総長・学長の職にある私たちは、戦争に青春を奪われた全世界の若人たちのことを、とりわけ、戦陣に倒れた学徒のことを痛惜の念をもって想い起こす。
戦時中におきましても、先生ちょっと触れられましたように、戦争末期におきまして、学徒出陣、兵役の延期につきましても理科系を優遇した。また、旧制高等学校におきましても、伝統的に文科系が優先であり、また、重視、尊重されてきたわけでございますけれども、戦時中、末期になりますと、文科系をどんどん縮小して理科系を充実拡大したという経緯もあるわけでございます。
私はいわゆる学徒出陣で海軍に入り、敗戦時に海軍少尉でした。私の乗った船はアメリカ海軍の潜水艦に撃沈され、私は三時間泳いで僚艦に助けられましたが、生き残れたのは二割弱です。血だらけになった人たちが甲板上でのたうち回っていた光景が、今も脳裏にまざまざと刻まれています。私は、水上特攻隊員として任地の石垣島へ送られる途中でした。
学徒出陣で二年間学業は中断しましたけれども、復学して、一九四六年に卒業して、一橋大学の特別研究生として三年間憲法の勉強をしました。その後は、一九四九年から定年になるまで名古屋大学の法学部で憲法の講義をしていましたし、定年になってからは、大阪の私立大学で同じ憲法を十数年教えておりました。
第三に、学徒出陣によって学業半ばで戦場に出ることを余儀なくされ非業の死を遂げた日本戦没学生を記念するわだつみ会の立場から、会は今この悲劇の戦没学生たちもアジアへの侵略を担った加害の立場も認めるようになっていますが、六月に他の五団体、不戦兵士の会、平和遺族会などと共同で日の丸・君が代法制化反対の声明を出していますが、一昨日、戦中派の会員から私のところに電話がありまして、八・一五の集会の際には、共同声明
これは、私たちが共同行動をとったときに、平均年齢八十歳の老兵士たちが死ぬに死ねないという形で集会をやったということがマスコミでも取り上げられたんですが、やはり山本議員が今おっしゃったように、天皇絶対の時代状況の中で、文字どおり学徒出陣で戦場に出ることを余儀なくされ、非業の死を、しかも戦後しばらくの間は意に反して戦場に出ることを余儀なくされて死んでいった悲劇の若者たちということであったわけです。
学徒出陣で行って、海軍の最後は震洋特攻隊というところにおりました。仲間の中には、いわゆる人間魚雷回天に行って死んだのもおりますし、戦艦大和で死んだ人も、階段ベッド上下で上で寝ていたのがそんなことで亡くなりました。
しかし、太平洋戦争の戦火が拡大する中、第一回学徒出陣で和歌山連隊に配属、肋膜を患われ帰郷された後、医学の道に進むことを決意されました。日本大学医学部に進学された先生は、卒業後も研究室にとどまり皮膚科の病理学を専攻、博士号を授与されるなど研究者として研さんを積まれるとともに、教育者として後進の指導に当たられ、昭和四十年三月、日本大学医学部教授となられたのであります。
戦前の学徒出陣などの引き合いが出ておりまして、若干いかがなものかという気持ちはあるのでありますけれども、そのほか、脳死は法で決めていいものだろうかというような論議が盛んに論調として出てまいりますし、また国民の皆さん方のサイドにも、はて、法律がここまで来て本当にいいんだろうかという問いかけ自身が国民の中に起こっておるというふうに私は感じております。
○田英夫君 冒頭から私ごとで恐縮ですけれども、太平洋戦争中、私は学徒出陣で海軍に入り、震洋特別攻撃隊の隊員になりました。これは船の特攻隊ですが、そのときに任地が沖縄になれば、沖縄が私の死に場所になったわけであります。大勢の戦友が死んでおります。 同時にまた、昭和四十六年、初めて参議院議員になりましたとき、最初の仕事が沖縄返還であります。
今から五十五年前に、私は学徒出陣で石川県の金沢の部隊に入隊した。そのとき、この河北潟というのは新鮮な魚の産地であった。これが、一九六三年、昭和三十八年に三百四億円、それに附帯工事をして、約四百億の工事をして、稲作から畑作に転換をした。六五年の計画変更、七七年にも計画を変更し、七八年にも飼料畑と畑作に転換をする。八二年に第四回の変更をした。
というのは、河北潟の問題につきまして、私は昭和十八年に学徒出陣で金沢に入隊をしました。そのときの河北潟というのは、新鮮な魚の産地でありました。ところがそれを、国営干拓事業として、ちょうど島根県の本庄地区と同じくらいの千四百ヘクタールを干拓した。そして水門を閉じた。
学徒出陣により学業を中断された後、終戦とともに大学に復学された先生は、卒業に当たって元最高裁判所長官田中耕太郎博士の推薦により、郷里の大先輩であった永野護先生の秘書として前後十年余り仕えられ、その後永野先生が運輸大臣に就任されるや、その秘書官となり、実務多端な大臣を支えて挺身されました。このころから君の才腕は広く政官財界に知られるようになったのであります。