2015-05-29 第189回国会 衆議院 政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会 第4号
そういうときに、非常にメディアにも取り上げていただいて、我々の世代というのはいわゆる学園紛争だったりとかという時代ではないので、そういう若者がいなかったものですから、クローズアップしていただきました。
そういうときに、非常にメディアにも取り上げていただいて、我々の世代というのはいわゆる学園紛争だったりとかという時代ではないので、そういう若者がいなかったものですから、クローズアップしていただきました。
黄金の七〇年代という議題だったんですが、どういうことが書いてあったかというと、これから学園紛争はますます激しくなる、交通地獄は大変なことになると書いてあって、十幾つ書いてありましたが、全部外れました。大体、新聞の予想というのはその新聞だと思って、あれから朝日新聞というのは読まない傾向になったんですけれども、それが私の万博に関する一番の思いです。
我々の世代は、七〇年安保闘争による学園紛争に遭遇し、多感な学生時代を過ごした世代でもあります。 私は、昭和五十八年、三十八歳で衆議院議員として奇跡の初当選をして以来、一隅を照らすを信条としています。五年前の郵政選挙により、私は、自分の政治的信念に逆らい踏み絵を踏むことはできませんでした。刺客によって衆議院選挙で落選し、いったんは政治生命を絶たれました。
私は学園紛争もしていましたからね。私は当時、右翼反動自見一派でございましたが、もうよく分かる。大体、共産主義がはびこってくるのは、もう松村先生、警察官僚ですけれどもね、大体貧しい人とか希望がないところにどんどんどんどんやっぱり犯罪というのは起きてくるんですよ。私、犯罪を一概に非難はしませんが、いや、許せるものじゃないけどね、やっぱり犯罪が発生してくる土壌というのはあるんですよ。
○公述人(坪田要三君) 自分で勉強してより上の資格を取るということを考えますと、歴史的なものがやっぱりあるわけなんですけれども、私が担任をしておったときの学園紛争のときに、大学院を受けたいというのでどうするというので、退職して行くというのと、それから夜間へ変わって行くというのといろいろありました。現在ではそれがどうなっているか分かりませんけれども。
ただ、例えば、これも極端な例でございますけれども、学園紛争が何年も続いて正常な教育研究活動が全く行えないといったような状況がもし仮にあるとすれば、廃校という可能性も出てくるんではないかと、こう考えてございます。
実は私は、一九六九年、そこの鳩山さんと全く同一世代でございますが、いわゆる学園紛争のころ数年間は、大学へ行っていても研究はやらずに、新しい社会改革の一翼を何とかと、学生なりの気持ちで怒りをぶつけていたわけで、その後は三十年余り、ひたすら新しい領域をつくろうということで沈潜しておりましたが、このたび、このような法案を見るにつけ、いろいろな先生方が非常に、まじめに考えれば考えるほど許せない法案であるというふうなことを
この機動隊の基本的な配置は、学園紛争で火炎瓶が飛び、治安が荒れたときの、暴動を想定した配置のままで、いつもは訓練が中心です。現在は外国人犯罪などはありますが、治安は落ちついてきています。」等の、警察の内情をよく知っている方の御指摘もある。 警備公安部門の適正化ということを図る必要はあるんではないのかな、その辺のお考えはどうでしょうか。
けれども、これも学園紛争とかいろいろありまして、なかなか思うに任せませんでした。 それでやってきているうちに、片っ方では高校の進学率が九八%ぐらいになってきました。そうすると、高校の教育のあり方も相当変わってきている。それを受けて大学の法学部の教育の仕方というのも、一般教育もやり専門もやりなさいというととても無理な状況になってまいります、学生にしても。
つまり、御存じのように、学生運動というのがあって、学園紛争があったわけです。あるいは、いわゆる十八歳、十九歳は大人かという議論が物すごくなされたという時期がございました。ところが、一つの社会の変化といいますか、子供たちに変化が起こって、実際の少年非行の主体というのは十四歳、十五歳に移っていったということがございます。
もともと過去もこうした事例の中で、特に議論された中でこの部会等には大学の先生等専門家の立場の方がたくさんいらっしゃいまして、歴史的にはかつての学園紛争のころなどに、いろいろこうした問題から校内での、時にはつるし上げとか、当時を知っておられる皆さんにはいろいろお話も聞いておるわけでございますが、今日でき得る限り、あらゆる部門の中で情報公開というのが時の流れでもございますし、国民の大きな関心と要求下のもとにございます
私がこの田中先生を本当に尊敬した事件というのがあったわけでございますけれども、それはどういう事件であったかと申しますと、私どもが中高の時代と申しますと、この東京でも数多くの大学で学園紛争が起こっていた時代でございます。
○政府委員(坂元弘直君) 確かに、昭和四十四年にこの通達を出したときには、高等学校も巻き込んだ学園紛争が全国的に大学等含めまして行われているときで、先生方も御承知のとおり、一部にかなり過激な運動が行われておったことは事実でございます。
しかし同時に、既設国立大学におきましては、やはり学園紛争の傷跡というものが残っておるということと、教育と研究とにどうバランスを持たせるべきかということに対して大学当局者自身にも真剣に御検討いただく必要がある。その御結論を得ながら、我々は大学における研究活動というものをいかに助長していく、国として伸ばしていく施策を考えるか、そうしたことを真剣に考えてまいるところであります。
高等学校以下におきましてはまだ格差は少しございますけれども、そういったことでこの補助金の成果も、先生がおっしゃいました学園紛争の種になった授業料の大変な値上げ問題、こういったことにもこの補助金が徐々にではございますが浸透していきまして、鎮静化に向かわしている、こういった実態もあることを御承知賜りたいと思います。
これが学園紛争の出発点ではなかったんですか。
私が大学にいましたのが昭和四十一年から四十四年でございますけれども、ちょうど当時は非常に学園紛争の盛んなときでございました。
特に記憶に残ることは、荒れ狂う学園紛争の中でいわゆる大学法案の処理や、沖縄返還協定に伴う関連法案の処理は、その国家的重要性からして、私にとって終生忘れ得ない政治的体験でありました。その評価は、もとより立場によって異なります。しかし、当時国会運営の責任者の一人であった私にとって、この政治的局面でいささか力をいたすことができましたことは、顧みて政治家冥利に尽きる思いであります。
それが僕、大学の管理者、医の倫理、教育——私、前に申し上げましたけれども、学園紛争時代、私があの激しい昭和四十五年から五十一年、医学部長として六年、学生を相手に大論争を続けてこれたのは、一つには大学は論理展開の場だという私の論理ですよ、論理こそ大学のすべてだ、これ以外はない、警官なんか入れたってだめなんだからというのが一つ。もう一つは、医の倫理の前に医の教育倫理がある。
○高桑栄松君 学問、研究の自由と、よくわかりましたが、どうも大学の自治ということを履き違えて、これ学園紛争当時も私はそう思って、そこを取り違えないようにということを学生諸君にもしばしば強調いたしましたが、大学のキャンパスは治外法権であると、こういう考え方が今でもあるのではないかと思うんです。例えば刑事問題に属するようなものも大学自治の範疇に属しているかどうか、もう一度大臣、お願いいたします。
しかし、僕は学園紛争時代の学部長を六年やったんです、昭和四十五年から五十一年です。そういうことで、こういう事件を起こすこと自体、教授会というものがいかに無責任であるかと僕は思うんです。私は、六年間紛争を全部相手にして、全部団交を通じてやってきましたよ。言わしてもらえば、僕は警察を入れませんでした。六年間です。それは論理の場なんだから、大学は。知的集団の学生ですから。暴力団集団じゃないんです。
九百万分の一の確率というのは前の教授のボイコット、私が知っている範囲では学園紛争の余波を受けて、それを教室員が利用して、そして教室員の内部告発によって教授が追い出されたということです。私は当時現役の医学部長でございますから大分よく知っております。ですから、ともかくやめさせられたと。同じ事件が起きたと。ブランデーにVSOPというのがありますよね。
私が学園紛争を通じて私の持っていたフィロソフィーを申し上げますと、医の倫理の前に医の教育倫理がある。これが、私が医学部長として六年間やってきたときの私の大事なフィロソフィーです。教授諸候には医の教育倫理を徹してもらいたい、おたおたしてもらっちゃ困るということであります。 いわば、公金横領の事実が明白になった助教授、講師、こういう人は教官に値すると思われますか。大臣、いかがでしょう。
○高桑栄松君 今、大臣言われたとおり、私はちょっと上でございますので、学園紛争当時、私は教授でもございましたし、そのさなかに医学部長を務めました。それで大学管理臨時措置法というのができて、あれで一挙に、もうすべての学校がおさまった。あれは私は教師側としては情けないことだと本当は思っています。あれに頼らなければ学生との対話ができなかったのかと。