2009-02-20 第171回国会 衆議院 予算委員会第四分科会 第2号
木津川市の教育委員会は、大規模な燃灯供養を行う特殊な装置として神雄寺の存在は、学問中心の寺院や修業を中心とした山岳寺院とは異なり、今までの古代寺院、仏教観を一変させるとの見解を発表して、遺跡を評価しております。と同時に、国の史跡指定を目指す方針であります。
木津川市の教育委員会は、大規模な燃灯供養を行う特殊な装置として神雄寺の存在は、学問中心の寺院や修業を中心とした山岳寺院とは異なり、今までの古代寺院、仏教観を一変させるとの見解を発表して、遺跡を評価しております。と同時に、国の史跡指定を目指す方針であります。
アップ・オア・アウトという政策があって、アップをされるのはごく少数で、ほとんどはアウトで外へ出していく、外で活動した人たち、活躍した人たちをもう一遍戻してくるというやり方をとっているわけですが、これで世界の学問中心地が今大体アメリカにあると言われておるわけですね。なぜそうなったかというと、百年前からそれをやっている。日本は今からやるんですからそう簡単にはいかないだろうと思いますね。
お手元に資料をお配りしておりますが、資料一ページに、エポニミーという観点から世界の学問中心地の移動を調べております。従来のフランス、イギリス、ドイツから、二十世紀には学問中心地がアメリカに移ってまいっております。現在、日本の大学では、理工系や医学系を中心にしまして世界的にトップレベルに到達をいたしておるわけでございます。
やはり今の世の中全体はどうも学問中心に評価をしていくようなことが当たり前のようになってしまった。
恐らく、昔も今も、先生の体格も、生徒は確かに大きくなりましたけれども、そう大きな、日本人である限り違いはないわけで、要は、先生が中・高・大学と、こう自分が学んできた、教育を受けてきた過程の中で、人間との触れ合い、あるいは人と人との関係、そうしたことの体験が全くない、ほとんど学問中心にやってこられて、先生の試験をパスしてこられていると、私はそこにどうも原因があると。
やはり学者あるいは学術会議として中立的態度を堅持されて、あくまで学問中心に科学的にお考えになり、また処置されんことを期待しておる次第でございます。
大学の意味もあるかと思いますが、同時に、御指摘の真の意味における学問研究、世界の学問水準を維持しあるいは発展さしていくためにほんとうに研究をしようという意欲を持ち、またそれをやれる基礎研究者というものが一定の度合いを保つということは、これから日本として非常に必要なことであると思うのでございますが、残念ながら今日その体制にないということ、これから私たちが考えるべきことは、学部の充実と同時に、そういう学問中心
たとえば学問中心の大学、あるいはまた一般の職業人養成の大学、あるいは小中高の先生方を養成するいわゆる教員養成の大学というものでは、大学であると申しましても、その目的、性格というものはおのずから違うわけでございまして、その違った目的、性格に応じて国としての力の入れ方というものを考えていくべきであった。
したがいまして、大学院制度をどうするか、つまり学問中心の大学の機能をどうするかという問題、それからまた、それに伴いますところの大学院生あるいは御指摘の研究員というような者の処遇の問題あるいは災害補償の問題こういうものをひっくるめて考えなければならない。
その点お説のとおりだと思いますし、またしかしながら一面におきまして、大学というものは学問の世界的水準というものを維持、発展させる、その基礎研究と申しますか、研究ということの本質を持っておりますから、その研究中心の大学、それはつまり大学院を中心としたたとえばアメリカのような大学というふうに考えていくのか、あるいはプロパーの大学院大学にするのか、これは議論の分かれるところでございますけれども、とにかく学問中心
そういう点において、私は大学はどうしても学問中心なんだ、学問を十分やることがその人間を養う意味だというふうに考えております。しかし、人間は申すまでもなくただの精神でもなくして、肉体を持つたものですから、ただそういうやり方では足りない。