1967-12-01 第56回国会 参議院 石炭対策特別委員会 閉会後第2号
第三日は、好間炭鉱で会社側及び労働組合の要望を聴取した後、仙台におもむき、東北電力の仙台火力発電所を視察して、翌第四日に帰京したのであります。 まず、常磐の近況を申し上げますと、炭鉱数は、合理化法が施行されました昭和三十年当時は九十八炭鉱でありましたが、現在ではわずか十四炭鉱となっております。
第三日は、好間炭鉱で会社側及び労働組合の要望を聴取した後、仙台におもむき、東北電力の仙台火力発電所を視察して、翌第四日に帰京したのであります。 まず、常磐の近況を申し上げますと、炭鉱数は、合理化法が施行されました昭和三十年当時は九十八炭鉱でありましたが、現在ではわずか十四炭鉱となっております。
常磐炭田、なかんづく、福島県側はほとんど私どもの鉱区でございまして、古河、好間炭鉱が一部操業しておられる程度でございますが、茨城県鉱区は、いま阿部先生から御質問のように、鉱区鉱業権者が相錯綜しておる現状でございます。井上局長からも、昨年暮れでございますか、示唆という程度でございまするけれども、統合をすべきであるという御意見、勧奨等もございました。
ついで好間炭鉱で会社側から、常磐磐城炭鉱で鉱業所側及び労組側から説明を聴取し、小名浜の石炭積み込み設備を視察した後、当地方の経営者との懇談会に臨みました。 第二日は、まず、常磐共同火力で低品位炭の使用状況並びに第六号機の建設現場を視察、ついで重内炭鉱を視察し、常磐茨城では鉱業所側から、主として隣接諸炭鉱との協業化問題を聞き、労組側から要望事項を聴取した後、新斜鉱の新式巻き揚げ設備を視察しました。
最後の査定は事業団でやると思うのですが、好間炭鉱で、うちの山を買ってくれという申請書だけですね。うちの山は埋蔵量幾ら、年産幾らという明細な申請書がついているわけでしょう。ですからそれはどういうことになっておりますか。
今月の十二日だと記憶しておるのですが、石炭委員会で古河好間炭鉱の閉山問題に関して、大河原、阿具根両委員より、通産当局に、大臣、石炭局長にお尋ねがありました。速記録を通読しましたところ、相当部分が速記停止になっておるわけです。速記停止になっておりますので、当時の委員長は岸田さんですが、岸田さんの御指示によって速記がほとんど削除されておる。ですから中身がわからぬ。
○委員長(前田久吉君) 次に、産業貿易及び経済計画等に関する調査を議題とし、好間炭鉱に関する件の質疑の要求がありますので、これを許します。阿部君。
これは私の所属している古河好間炭鉱です。これが突然に会社の所長のほうから口頭をもって、閉山をしたいという閉山の通告がされてきたわけです。組合の方々、従業員の方々はほんとに寝耳に水ということで、非常に驚愕を示しておる。現在てんやわんやをやっているわけです。ここは御承知のように、古河系のあれで、古河系の炭鉱というものは、すでに九州と常磐の二地域しかない。
なおこのほかに非常時に際しまして自家用動員をお願いしておりまするが、それは福島県の浜通りに常磐炭鉱、それから古河鉱業の好間炭鉱それから日本水素工業の小名浜工場でありまするが、ここの三工場並びに岩手県の大船渡の小野田セメント工場この四カ所にお願いしまして、自家用火力の非常動員をお願いしております。
それは二十三日の朝私は内郷町から湯本に参りましたときに、炭労を訪問して幹部の方においさつを申し上げた、そうしてその日の好間炭鉱の演説会を終りましたから、また労組の幹部諸君と懇談会を持つておりますが、この懇談会はやはり政策的な問題についてのいろいろな打合せ、政策といいましても國会内におけるいろいろな方針、あるいはわれわれの考えておる線、あるいは社会党の線、民主自由党の労働行政に対する考えというようなものに
それから好間炭鉱労働組合の方へ参りまして敬意を表して、そこでまた演説会をやつております。それから常磐炭鉱労働組合の、先ほど申しました幹部諸君の会合に臨んでおります。そうしてその晩に湯本の労働会館で夜の國会報告演説会をやつております。そのときから朴さんが私の世話をして、成田屋で一切世話をしてくれました。こういうような関係です。
○土橋證人 私好間炭鉱に参りましたのはちようど二十四日の日であります。先ほど申し上げたように、湯本で非常にからだのぐあいを悪くいたしまして、今日は午前中はひとつ休ましてくれということでありましたが、好間炭鉱で、たつてのお願いでありまして、夕刻の五町ごろ自動車で私は好間炭鉱へ参りまして、そこで出迎えを受けました。この方はたしか太つておる方と思います。
○円城寺証人 その点はよく存じませんが、常磐におられたことも私は知らないので、実は今松本さんがやつております隅田川というのは、私の会社の好間炭鉱の鉱区を一部わけてやつて、あのお父さんが個人経営をいたしましてああいうふうになつておりますので、常磐との関係はよく知りませんが、しかし相当大貫さんが重用したということはあると思います。