1969-06-24 第61回国会 参議院 文教委員会 第18号
これはその意味ではあとから何かしようとする人が非常に不便であるということは、たとえば難波京の場合、これなんかそうでしょうし、それから奈良京の場合だって同じことです。そういういろんな事例があるわけですからね。私はその点でいまになってから、もうどうしたらいいかわからぬというようなことも言われなかったが、大体それに近いようなことをおっしゃることは、なかなか納得がいかぬという気持ちがあるのです。
これはその意味ではあとから何かしようとする人が非常に不便であるということは、たとえば難波京の場合、これなんかそうでしょうし、それから奈良京の場合だって同じことです。そういういろんな事例があるわけですからね。私はその点でいまになってから、もうどうしたらいいかわからぬというようなことも言われなかったが、大体それに近いようなことをおっしゃることは、なかなか納得がいかぬという気持ちがあるのです。
これは平安京ではそのあとがはっきりしておりますが、奈良京でも羅城門はどこかにあったということは、羅城門で雨ごいをしたということがあります。それから方八町の宮城の南正面は朱雀門でありまして、ここではしばしば行事がありまして、ここで聖武天皇が時には歌垣があった。ここへ男女二百人くらいが集まって歌垣をしている。
その間に日本は奈良朝におきましては奈良京が都城として繁栄いたしたのでございまして、お互いに文化を競い合って、いわば世界的の文化が東洋に樹立したわけでございます。それぞれみな都が中心になっておりますので、唐の長安は当時まことに繁栄をいたしまして、そこに一番左の方に唐の長安城、宮殿を含めての長安城でございますが、それをそこに出してございますが、こういうような都城ができておったのでございます。