2010-11-17 第176回国会 参議院 本会議 第9号
最後に、菅総理は就任時、勇ましくも奇兵隊内閣と発言されました。ちなみに、私は会津人であります。百四十二年前、私たちの先人たちは悲しくも日本人同士で争いながらも、時代の流れの中で東軍となり、またあるいは西軍となって、いずれもが正しいと信じるままに、それぞれの道へと自分たちの誠を尽くし、士道に殉じました。あのときの御霊たちは、こんな弱腰の外交の日本にするために散っていったのではありません。
最後に、菅総理は就任時、勇ましくも奇兵隊内閣と発言されました。ちなみに、私は会津人であります。百四十二年前、私たちの先人たちは悲しくも日本人同士で争いながらも、時代の流れの中で東軍となり、またあるいは西軍となって、いずれもが正しいと信じるままに、それぞれの道へと自分たちの誠を尽くし、士道に殉じました。あのときの御霊たちは、こんな弱腰の外交の日本にするために散っていったのではありません。
総理、あなたは六月に総理に就任された際、自らの内閣を、それが何たるかの知識や理解も十分にないままに奇兵隊内閣と命名されたようですが、今でもこの名前を名のっておられますか。あなた自身を奇兵隊を率いた高杉晋作になぞらえたおつもりでしょうが、我が郷土の英雄である高杉晋作は、こそくな手段を弄して自らの責任を回避するようなひきょうな武士ではありません。
奇兵隊内閣と大ぶろしきを広げたとの答弁についての御報告であります。 私も山口県に生まれて十七年を過ごしました。私のイメージする高杉晋作という人はかなり大ぶろしきを広げる人であったと、こんなふうにも思っております。そのことが、それに加えて、私が奇兵隊内閣と申し上げたのは、奇兵隊内閣と申し上げたのは、(発言する者あり)いいですか、お聞きいただけますか。
いまだに長州、薩摩に対するじくじたる思いがありますので、菅総理が奇兵隊内閣と言ったときには、やはり連立は組めないというふうに判断をさせていただいたところでありますけれども、我々が、私たち会津人がこの百四十二年前にこだわりがあるということは、単に恨みつらみということではなくて、しっかりと過去を検証して、二度と同じような悲惨な争いが起きないために過去を検証していかなければならないという態度で、これからもこの
新内閣発足に当たり、総理はこの内閣を奇兵隊内閣と名付けられました。総理もよく御存じのように、奇兵隊の目的は倒幕でありました。明治の思想家徳富蘇峰は、その著書「吉田松陰」の中で、大きな国の改革を成し遂げるには三種類の人物が必要であると述べています。すなわち、思想家、破壊者、創造者であります。奇兵隊はまさに成功した破壊者でありました。
私が奇兵隊内閣と名付けたいと述べたのは、日本の長きにわたる閉塞状態を打ち破るため、奇兵隊のような果断に行動することが必要だと、それと同時に、武士階級以外からも様々な人が参加した奇兵隊のように、幅広い国民の中から出てきた我が党の国会議員が志を持って勇猛果敢に戦ってもらいたい、こういう期待を込めてのことであります。
総理は、記者会見において、みずからの内閣を奇兵隊内閣と評されました。奇兵隊は、身分制度にとらわれない武士階級と農民、町民から成る混成部隊として、高杉晋作によって発案、組織され、幕末の動乱の中、多大な成果を上げました。一方で、奇兵隊は大変動きが機敏であったことで有名ですが、総理は、会見で、逃げ足が速いと言われました。その意味でいえば、総理、あなたと全く同じではありませんか。