2000-02-28 第147回国会 衆議院 予算委員会第二分科会 第2号
○宮澤国務大臣 何事もそうかもしれませんけれども、たばこはかつて大蔵省専売局に属して専売事業でありました。それが公社に分かれる。大変長い経緯がございますが、その間、日本のたばこ耕作者というものは、かつてはかなり多うございましたが、かなり減ってまいりました。かなり減ってまいりましたが、現在まだ相当の数がおって、簡単な転業ができるわけでもない。
○宮澤国務大臣 何事もそうかもしれませんけれども、たばこはかつて大蔵省専売局に属して専売事業でありました。それが公社に分かれる。大変長い経緯がございますが、その間、日本のたばこ耕作者というものは、かつてはかなり多うございましたが、かなり減ってまいりました。かなり減ってまいりましたが、現在まだ相当の数がおって、簡単な転業ができるわけでもない。
○説明員(長岡實君) 大変厳しい御指摘を受けたわけでございますが、今から三十五年前に大蔵省専売局が日本専売公社に変わりましたときから、営業等の分野につきましては、前垂れがけでやっていかなければいけないということで進んでまいりまして、実は私事になりますが、私は公社の経験がまだそれほど長くございませんので、私から申し上げるのはいかがかと存じますけれども、私が公社に参りまして見ましても、営業の部門というのは
これにつきましても、昭和二十四年に大蔵省専売局が日本専売公社に改組されて以来の大きな改革であろうというふうに考えております。 それから輸入、卸、小売の点についての御質問でございますけれども、輸入並びに卸業につきましては、登録制度はとるわけでございますが、原則として自由にいたします。
いままで大蔵省は財政専売の中で、大蔵省専売局ということの認識、発想というのがどうしてもあると思うんですね。けれども、私はこの関税率の引き下げということを奇貨として、さっきも申し上げましたように、新しいたばこ戦争が日本の市場の中で始まってくる。それで輸入会社をどうしても別途つくらなきゃならぬでしょう。私の感じとしては、専売公社の中に取り込むということはどうしても無理だと思うんですね。
向学の心あつい君は、十六歳にして、当時の大蔵省専売局板橋製作所に勤務する傍ら、努力して専検に合格し、さらに高文の受験を目指したのであります。しかし、第二次大戦の召集によってその道を閉ざされ、このことが後に君の人生の指針を決める契機ともなったのであります。
それから、専売公社の件が出たわけでございますが、経緯的に申し上げますと、昭和十二年に専売制度がしかれましたときには、大蔵省専売局の中にできたわけでございます。
それまでは大蔵省専売局ということで大蔵省内の組織でございましたが、いわゆるマッカーサー書簡によりまして、当時は労働問題等に端を発しまして専売公社と日本国有鉄道が公社経営になったわけでございますが、当時の公社法の国会における提案趣旨は、やはり企業体として事業の効率性、健全にして効率を上げていくというために独立の法人格を与え、独立の管理組織を持たせるというようなことが当時の提案理由になっております。
○鈴木一弘君 実質は大蔵省専売局から名前だけが、外見だけが専売公社に変わったというふうにいまの答弁だと変えてきておりますが十分とは言えませんという、まだまだ不十分という話ですけれども、設立当初の過程の中でも、これは「日本専売公社の発足」という専売公社の本の中にも出ておりますけれども、総司令部との応対、折衝の中からマッカーサー元帥の意向は、実態は現在どおりでもよいが、形は公社をつくりたいということが痛切
三十年たってもなおかつ、大蔵省専売局の残滓を残していくのではいかぬのじゃないだろうかと思うのであります。その点について大臣の意向をお伺いをして、私の質問を終わりたいと思います。いかがでございましょうか。
大正十一年に当時バットが七銭から六銭ですか、これ一回しかなかったですけれども、公社発足以来は、いままでの大蔵省専売局のやり方と違って、サービス精神でやろう、こういうことで二十五年、二十六年、三十一年と値下げがあったですね。しかもその値下げがあって売り上げは伸びたでしょう。売れ行きは、値下げがあったがためにぐんと進んだ、益金の方も確保された。
大蔵省専売局ならいざ知らずですけれども、そういった点で、公共料金凍結という立場から、副総裁みずからも言われた三つの目的のうち、しかもどれが後先ということなく、こうおっしゃっておるのですけれども、いままでの値下げをした事例と実績の検討も十分でなく、また抵抗なく売れ行きを伸ばしていくには二〇%が限度ということの吟味もこれまたなされておらず、ただひたすらに財政需要を満たすためにだけということになりますと、
つまり、全部吸い上げるというのではなくて――公社は大蔵省専売局から離れた経過はいろいろあります。またサービス精神ということも言われましたけれども、しかし、いずれにしても、現在、公共料金として国民生活を守る上で強い要請があることも御承知のとおりです。法律上のたてまえから言えば、そういった立場からの経営をやって、その上で納付金があれば納付しなさい、こういうことでしょう。
濱田議員は、明治三十一年八月一日、高知市浦戸町にお生まれになり、大正十一年東京帝国大学法学部政治学科を卒業、大蔵省専売局に入られました。地方専売局長として各地を転勤され、後昭和十六年には広島税務監督局長及び財務局長、翌十七年には大蔵省営繕管財局長に任ぜられました。この間、朝鮮、関東州、満洲国、中華民国等に出張され、また、各種の委員会、営団等の委員、評議員をおっとめになり、御活躍をされておりました。
○説明員(牧野誠一君) 専売公社では、これは明治三十何年かに大蔵省専売局として発足して以来あまり変わっておらないのですが、住宅に対する方法としては、なるだけ近所の方にその工場へ来ていただくということで、一般には寮だとかあるいはそのための宿舎だとかいうようなものはなるだけつくっておらないということでやっております。
大蔵省専売局というのなら別でありますけれども、それなら大蔵省関係であるからということも言えるでありましょうが、専売公社となっているときに、こういうようなふしだらというものは、国民は許せないという気持ちになるのであります。
それが企業の妙味でありまして、それがなければ、昔ながらの大蔵省専売局ということでも事は足りるかと思うのです。ところが公社になったのは、まあその因縁は別な目的からであっても、今日の運営としては、やはり正しくそういう方向へ向けるべきだと私は思っております。
大蔵省専売局の関係じゃございませんけれども、競馬をやってもうけた金で馬事公園に馬事施設をしてオリンピックが終わればそのまま競馬界の財産になる。人のふんどしで相撲をとって施設をふやしていくだけです。そういう政府の態度は根本的に間違いです。お説教をするようだけども、これだけのものを国民に協力を得なきゃオリンピックできないんでしょう。
○政府委員(谷川宏君) 専売公社以前は大蔵省専売局で扱っていたわけでございますが、明治、大正年間におきましては、全体として利益をあげておりました。それから、昭和元年から昭和十九年まで、すなわち戦前におきましても、かなりの利益をあげておりました。
そこで将来、われわれの承わっておるところによりますと、この減反はもうこの辺でストップすべきであるというふうな考え方を持つべきではないかと思うのでありますが、それには輸出振興の問題が関連を持つのでありまして、今年度の予算を拝見いたしまするというと、大蔵省専売局予算の中で輸出の予定は三百万キロであり、前年に比して二百万キロも減じているというようなことは、一体何を物語るものでありましょうか。
私は国鉄公社の模様も拝見しておりますし、また専売公社の運営委員になつておりますが、専売公社のあり方のごときは、まつたく大蔵省専売局が文字通り看板を塗りかえたというだけでございます。そうして秋山孝之輔氏がただ総裁となつているだけであります。総裁、副総裁と言つておりますが、副総裁以下は大蔵省の方がおられまして、まつたく帽子的の存在になつておるというわけであります。