2019-03-26 第198回国会 参議院 予算委員会 第14号
しかしながら、大田知事はこれも拒否をしましたため、同じ月に、地方自治法に基づきまして、大田知事に代わりまして当時の橋本内閣総理大臣が署名押印を行っているところでございます。
しかしながら、大田知事はこれも拒否をしましたため、同じ月に、地方自治法に基づきまして、大田知事に代わりまして当時の橋本内閣総理大臣が署名押印を行っているところでございます。
○木戸口英司君 大田知事の時代、先ほどお話あった普天間返還の橋本・モンデール会談、その後のいろいろな協議の中で、やっぱり県内移設ということが条件となればそれは容認できないというのが立場でありました。
そのことを受けて、当時の大田知事が非常にショックを受けたということが大田知事の回顧録の中にも出てまいります。
○木戸口英司君 少しこだわるんですけれども、今、大田知事から県内移設、そして普天間返還という要請、そして橋本・モンデール会談との合意ということがありましたが、橋本・モンデール会談があって、サプライズのように普天間返還が大田知事に伝えられて、それに同意してくれという中で様々な条件があるということについて、それはここでは同意ができないというのが大田知事の返答であって、県内移設については当時の大田知事は全
このとき、橋本龍太郎首相が、その結果を受けて、大田知事とすぐに、二日後に会談した。このときは、米軍基地の整理縮小と日米地位協定の見直しがテーマだったんですが、沖縄の圧倒的な民意を受けてすぐに会談したという事実がございます。 今回、総理、玉城知事とこの結果を受けて話合いをされるおつもりはおありでしょうか。済みません、通告はしていませんが。
しかし、その二日後に、大田知事とお話をしたときに、当時、橋本総理との信頼関係は本当に一〇〇%、一二〇%ありましたから、そのとき、政策協議会も設置して沖縄の振興策も検討する、五十億円の調整費もつけるということで、本当に感謝する、これは若者の夢が描ける、こんなに沖縄に向き合ってくれた総理はいないと感謝されました。その圧倒的多数賛成の後に、知事はそういう判断を独自にされたわけですよ。
○安倍内閣総理大臣 確かに、橋本政権において当時の大田知事とそうした交渉が行われた、また、江田委員が秘書官として支えられたこと、これは敬意を表したい、こう思っております。 我々も、しかし、これはいろいろな経緯があるわけでございまして、先ほども申し上げましたように、結果としては、大切なことはまさに成果を出すことなんだろう、こう思っております。
当時の大田知事は米軍基地強制使用のための代理署名拒否を表明していて、その混乱を収束するために橋本総理が率先をしてこの普天間基地返還ということをモンデール当時の駐日大使と取りまとめたということ、そして、県内移設を条件にしたということもむしろ橋本政権側から提案をしたことということだと認識しておりますので、その今の認識も、この間、琉球新報で、ファクトチェックにあったわけですけれども、ここもフェイクではないかということを
○安倍内閣総理大臣 橋本さんのときと今とは大分事情が違うわけでありますし、その後、大田知事の後、稲嶺知事、そして仲井真知事という非常に協力的な知事がいたんですよ。
しかし、僕が本当に疑問に思うのは、当時の橋本総理は、当時の大田知事と十数回、膝詰めで、二人きりで、何度も何度も話し合いをされたんですよ。しかし、私から見ると、この問題については総理は菅官房長官に任せ切りみたいな感じがする。
モンデール・橋本会談からこうなってきているわけですけれども、そのときに、橋本元総理はお亡くなりになりましたけれども、よく私たちが聞かされることの中で、橋本総理が当時の大田知事に電話をした、電話をして、普天間が返ることになったぞというようなことを言った、そしてその後で、橋本総理から、この代替案が必要なんだということを明確に自分は大田知事に申し上げたんだというようなことを言っておられました。
その一つとして、当時の大田知事は同日、記者会見をし、様々な問題があるにせよ、総理の誠意の表れであり、今後は国に全面協力をしたいとして評価をしております。そして、当時の宜野湾市民はどのような反応を起こしたかというと、願いがかなった、何十年も我慢してきたが、かいがあった、普天間基地周辺の住民は、突然伝わった全面返還の報を手放しで喜んだと。
九五年の少女の暴行事件がきっかけとなって、日米両政府で、当時の大田知事の、一番危険なその飛行場どうするのかということから始まりましたし、それは最初は県内移設では決してありませんでした。 そして、今お答えになった、その普天間の機能の一部の移転とおっしゃいましたけれども、そうではなくて、今アメリカが提案しているのは、まさに飛行場だけではありません。
大田知事もそうだし、平良幸市さんもそうだし、屋良朝苗さんもそうだし、三人とも革新の知事でありまして、また今回の翁長さんもそうですから、七人のうちの四人は政府の方針と違う人なんですよね。
これは、十九年前に、当時、先ほど革新知事のお話をされましたが、大田知事と橋本総理が普天間の危険性の除去という思いで、まさに日米交渉に影響を与えて、合意をして実現してきたことでありますし、また、現実においても、普天間の危険性の除去というのは、もう日本じゅうの皆さんがあの地域の飛行場の存在において大変危険なものであると認識しておりますので、これは一刻も早く移すしかない。
しかし、一九九八年、大田さんが知事になったときに、当時の野中官房長官は、大田知事を人の道に反したと批判して、大田知事と小渕総理の会談設定を打診するために上京した宮平洋副知事に対して、官邸は応接をしないように、どの大臣も大田さんと会わないようにとやっているんです。いいかげんですよね。
そして同時に、沖縄の知事、当時は大田知事でありましたけれども、非常に、この基地については撤去を求める反対派の知事でありましたけれども、この大田知事と橋本龍太郎総理は、十七回会談をしております。そして、モンデール大使とも話をして、キャンプ・シュワブ沖に移設をするという決断をしました。
○国務大臣(北澤俊美君) 十五年でありますから、そう短い言葉で表現するのは難しいと思いますが、しかし、モンデール・橋本会談で決定をされた直後、私も羽田孜先生と沖縄へ行って大田知事とも会談をしてまいりました。
橋本さんは、当時の大田知事と二十数回にわたって会談をした。沖縄がおれの死に場所である、そう言ったのは梶山静六官房長官であった。小渕総理は、まさしく命をかけてこの沖縄の問題に取り組んだ。沖縄サミットも実現をさせた。野中官房長官もそうだ。そして、多くの沖縄の人たちが、職を賭し、命をかけて、本当にガラス細工のように、実現一歩手前まで来ていた。
九一年一月十六日に沖縄県庁を訪れた在沖の米軍調整官のスタックポール少将は大田知事に対して、沖縄から約五千人が出て、さらに三千人が出ていった、そのかわり予備役が二千五百人来ましたというふうにお述べになっておられます。沖縄からつまり八千人が出動したことを明らかにした。これは沖縄に駐留する米軍の約四分の一に当たりますということがもう本に書いてございます。
沖縄大使の設置に、大田知事は、問題を解決することに寄与することになればいいと述べ、歓迎したと記載をされております。 メディア、新聞の報道は、このように、橋本首相の方から言われて、現場はそれを容認したという記事ばかりでございました。沖縄大使の設置に反対するにせよ、賛成するにせよ、やはり県側から、また市町村側から協議の要望があった記述は、私は一つも見当たりませんでした。
○国務大臣(北澤俊美君) 少なくても私は、橋本総理が合意をしたときは既に国会におりまして、沖縄へも何回か訪問して、当時の大田知事とも会見をしたりして協議をしている中で、小渕さんだとか橋本さんは、特に小渕元総理は沖縄に学生時代から行っていて、そういう中で予算委員会でも議論をした思いがありまして、そういう思いはあの当時から一緒でありまして、この問題について与野党で政争の具にするんではなくて、日本の安全保障
最初のミスマッチは、これはさっき申し上げた一九九六年の四月の十二日の記者会見の後、橋本総理が大田知事にお電話をなされる。大田知事、全面返還が決まりましたよ、しかしアメリカは代替地を要求していますからねということを自分は申し上げたと言っているんです。
当時、小渕総理も学生時代に頻繁に沖縄へ行かれて沖縄に対する思いを非常に強くして、大変に意気投合したことを今思い出しておるわけでありまして、私はこのとき大田知事に羽田孜先生と一緒にお行き合いしに行って会談もさせていただきました。
その橋本・大田蜜月時代というのがございまして、十四回もの総理官邸で大田知事と橋本総理との直接対話による沖縄振興協議会、普天間協議会等が開催されたわけであります。当時の大田県政も、普天間の移設は過渡的措置であると認識しているということを、当時の吉元政策調整監、後の吉元副知事になっていくわけでありますけれども、大田県知事の最も寵愛された部下の一人でありますが、そういう認識を持っていたわけです。
○内山分科員 この冊子によりますと、沖縄県の大田知事が、今なら体験者も遺族もおられるのだから、一日も早く戦没者の収容をしてほしい、こう語られているんですよ。やはりそういう事実があるということがこの冊子にも出ていますから、ぜひ早急に検討すべきだと思いますけれども、もう一度、今後どうされるか。