2019-11-27 第200回国会 衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第3号
まず最初に、衛藤大臣、最初の就任後の記者会見で、インタビューで大田実中将の最後の電報を引いていただきまして、心意気というか基本的な姿勢を語られた。
まず最初に、衛藤大臣、最初の就任後の記者会見で、インタビューで大田実中将の最後の電報を引いていただきまして、心意気というか基本的な姿勢を語られた。
そして、海軍の責任者が大田実中将であった。 最後に牛島さんも大田さんも自決をするわけですけれども、大田さんが自決する前に海軍次官に送った電報は余りにも有名でありますけれども、沖縄は一木一草焦土と化せん、糧食も六月いっぱいを支うるのみなりという、沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世格別の御高配を賜らんことをという電報であった。
そして、そのときの海軍中将、大田実中将が自決をされます。その一週間前の六月六日の日に海軍次官に宛てた電報、これが「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」、こういう電報を打って自決をされた。そして、それを小渕元総理が、二〇〇〇年の沖縄サミットを決定した際に、この思い、沖縄への恩返しなんだ、そういうふうに言われたと言われています。
私は千葉の生まれでありまして、千葉が大好きでありまして、千葉の偉人の誇りとして、やはり大田実中将がおられます。大田中将は、「沖縄県民斯ク戦ヘリ」という名文を残されて、自決というか散られました。 この沖縄戦には、いろいろな評価が当然あるわけであります。しかし、この「知る沖縄戦」は、非常に一方的な内容が多いですね。
太平洋戦争の際の沖縄方面司令官大田実中将が海軍次官にあてた電報を御存じかと思いますが、今を生きる政治家として、総理はどうお答えになるのでしょうか。 さて、野田内閣成立後の普天間問題への取り組みは、不可解でなりません。 人の動きを見れば、いかにも進展しているようにも見えます。閣僚だけでも三人が沖縄入りをしています。川端沖縄北方大臣、一川防衛大臣、そして玄葉外務大臣。
御質問にあった大田実中将は千葉県の出身でございまして、沖縄戦の悲惨さ、沖縄県民の過酷な実情と献身を訴えた電報は私もよく認識をしております。 しかし、戦後を通じて、また、沖縄返還を経て今日に至っても、沖縄県民の皆様に重い負担をお願いしてきたことについて、政府として大変申しわけなく思い、負担の軽減と普天間基地の危険性の除去を一刻も早くなし遂げたいと考えております。
太平洋戦争末期、昭和二十年六月、沖縄戦での自決を前にして、大田実中将の「沖縄県民斯く戦えり、県民に対し、後世、特別の御高配を賜らんことを」の電文に集約されるように、私たちは日米同盟関係を維持しつつも、沖縄の更なる負担軽減のため、誠意を持って最大限努力していくべきではないかと考えますが、総理の見解を伺います。 私、広野ただしの座右の銘は、徳は孤ならずであります。
この沖縄戦の惨状を海軍部隊司令官の大田実中将が「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と海軍次官にあてた電報を発したことはよく知られております。正に大田実中将は、沖縄戦で壊滅した沖縄県の復興と発展に政治の光を当ててほしいと遺言されたものと思われます。 時は移り人は去れども、私は、大田実中将の切実な気持ちは今なお生き、現在の政治、行政に反映されるべきだと考えております。
そして、沖縄戦末期の、大田実中将が大本営あてに打電をした、沖縄県民かく戦えり、後世沖縄県民のために格別な御高配あらんことをという電文の精神に基づいて可能な限りの支援を講じていただき、今に至っておるわけでございます。 沖縄県の振興開発に様々な特別の配慮がなされ、また、思い切った特別措置も講じられ、その結果、社会資本整備を始め本土との格差は次第に是正をされ、その成果を上げてきたところでございます。
大田実中将、当時の沖縄根拠隊司令官でございますが、最後に、自決する前に電報を打ちまして、「一木一草焦土ト化セン。糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ。沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ。」という有名な電報があるわけでございます。
他方、私はこの職につきましてから、昭和二十年の大田実中将の電報というのを読ませていただいております。「一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という有名な文章であります。
戦況が厳しくなった昭和二十年六月、海軍沖縄方面根拠地隊司令官大田実中将が、不幸な沖縄県民の上に思いを走らせ、祖国の同胞に訴えるべく、海軍次官に次のような内容の電文を打電しております。「一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配 ヲ賜ランコトヲ」というものでありました。
その際、当時の海軍部隊の司令官であった大田実中将から、沖縄県民かく戦えり、後世格別の御高配賜らんことをという切々な東京への報告があったということも承知しております。 それだけではなくて、それから戦後長くああいった本土とは違った米軍の施政下に置かれ、さらに復帰後も現に我が国に所在いたします基地の七五%と言われるような大きなものがこの沖縄にある。