2008-09-11 第169回国会 衆議院 災害対策特別委員会 第8号
もうお一方は、伊賀川沿いの河川敷内に五十八戸うちが建っておって、これが大正年代から建っておるということで、伊賀川整備の一つの大きな問題点だったわけですが、その家が基礎がえぐられまして、三戸が倒壊いたしました。
もうお一方は、伊賀川沿いの河川敷内に五十八戸うちが建っておって、これが大正年代から建っておるということで、伊賀川整備の一つの大きな問題点だったわけですが、その家が基礎がえぐられまして、三戸が倒壊いたしました。
当時、大正年代でありますけれども、二、三歳の少女だった方が、日本のシベリア出兵でこれが解放されて、当時、大正天皇の時代でありますけれども、数百人、日本を経由してポーランドに帰還した。そのことが、天皇陛下がポーランドを訪問されたときに、生き証人がおばあちゃんとなっていたということで、連日ポーランドでテレビ放送されて、日本の関心が高まった。
この際の改選によりまして、大正年代のコンビから昭和年代のコンビにかわりました。馬力をかけて頑張ることをお誓い申し上げて、お礼のごあいさつにさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。 ありがとうございました。(拍手)
○国務大臣(林義郎君) 未成年者にアルコールを飲ませるにはいかない、確かに大正年代の法律ですね。日本ではやっぱり未成年者には飲ませちゃいけない、こういうことになっています。だから、自動販売機でやるというのもやっぱり注意をしなきゃならない。
大正年代からの歴史がありますから、その歴史を無視してどうだ、こういうことでああいうふうな形になった。たしかそのときには、私の記憶では一六%だったと思うのですよ。それで一八%。一六%を一八%にするかどうか、藤井委員長もその当時いろいろとお話をされた記憶が私はあるのです、正直申しまして。 そういった点で、歴史の中から出てきておりますから、私はこれが脱税の目的になるとかなんとかというような話ではない。
○及川一夫君 大正年代、大正という言葉が出ましたので、多少疑問もあるわけですが、しかし何といっても借地・借家法が本来の意味で保護的に運用また適用されてきたのは、むしろ戦後が新しい時代を迎えてなされてきたのではないかと、そういう認識のもとに御質問申し上げたつもりであります。
なぜかといいますと、不動産業というものを例えば明治時代とか大正年代とか戦前であるとか、あるいは戦後十年、十五年ぐらいの間というものを考えてみますと、もともと、不動産業者と言われる人が土地やなんかを買い占めて、そうして造成してそれを売り払うというのはどうも不動産業という定義からいうと私はおかしいんじゃないかと。
これは私のあれでございますが、私は大正年代の生まれでございます。戦前、戦中、戦後を知っております。我が国のこの大発展したいわゆる経済力、そしてこの発展は中小企業の努力があって初めてなったのであります。あの見渡す限りの大焼け野原からこの東京が立ち上がったのは、大企業がそのままみずからがなったんじゃありません。
それで、その後決算委員会が開かれるという形をとるんですけれども、何でこんな九カ月もかかるんだろうかということを私なりに調べてみますと、今のやり方というのは実は大正年代からやられて、少しも変わっていないんです。ところが、事務処理ということになると、コンピューターはあるし電算機はあるし、いろんな事務処理機というものを考えたら大変な進歩をしているわけです。
そして大正年代に入りますと再び小選挙区制に戻りました。それが大正十四年、普選法の制定と軌を一にして現在の中選挙区制に変わってきているわけであります。戦後二十二年、一時都道府県単位の選挙制度が一年だけございましたが、それを除けば大正十四年から今日までざっと六十数年間、我が国は中選挙区制、世界にもまれな現在の定数三、四、五を基本にした中選挙区制を進めてきたわけであります。
それから尾瀬沼分水でございますが、これは先生よく御存じのように、大正年代に実は一度水利処分がなされておるものでございます。やはりこれも自然保護との調和が大変大事な問題のようでございます。
ただ、私どもがここ数年来そういう問題について関心を持っておりますのは、この法律ができたのは大正年代でございますから、非常に小規模な住宅あるいは店舗というようなものを建てるために土地を借りて、それで利用している、そういう前提条件のもとにいろいろな法律ができておりますが、最近都市の土地利用というものが非常にスケールが大きくなってまいりましたし、建物の建て方も非常に大きなものになってまいりました。
このような現状の生活実態において我々と何ら異なることがなく、また一九一〇年、大正年代の日韓併合後、その意思に基づかず、いわば強制的に連行されて半世紀以上我が国に定住して、終生帰国する意思のないこれらの人々、また身体的特徴に関しましても、身長、体型、皮膚、目、髪の色など差異の認められないこれらの人々と、帰国を前提に観光など一定目的のもとにおおむね三年以内には日本を離れる通過外国人あるいは一般外国人と全
これは各旅客会社の試算表を特にまた精査してみなければならないわけでございますけれども、安全投資については、旧来のいわゆる古い施設、いまだに大正年代につくられた設備が修理されながらその使用にたえ得るようにやられているわけでございますが、これはどう物理的に考えてみましても、摩滅現象というのは避けられないわけですね。
私も昔、大正年代の「カチューシャの唄」か何かに「西は夕焼け 東は夜明け」、こういう文句があるわけですが、その意味がよくわかんなかったですね。そうしたら、モスクワ空港を夕方飛行機で立ちますと、すぐに極東地域で夜が明けてしまうわけです。夕焼けと夜明けを飛行機の中で大して変わらない時間で見られる。
大正年代から始まって戦前に五回あった。戦争の遂行に伴ってさらに教育を国家主義、軍国主義で締めつけていくという、そういう性格を、五回戦前に総理直属で開いた審議会の中では歴史的に役割を果たしているものと私は思っております。明治初期の教育改革のスタート、敗戦直後の新しい教育改革に基づくスタート、これが第二。
しかし、ずっともう生まれた外国で生活をして、日本の国籍を持っておるということが、それはどういう動機であるかわかりませんけれども、実際上要らない、むしろ場合によっては妨げになることもあるのかもしれませんが、そういうことで離脱をするということが多いわけで、こういう方はこれは年齢まちまちでございまして、現在でも大正年代、明治に生まれた方が離脱の届けを出されるということもあるわけでございます。
○岡田説明員 新幹線を除きまして国鉄は全国に四万九千カ所の橋梁と三千六百カ所、千四百キロメーターのトンネルがございますが、このうち明治、大正年代に建造されました建造物で現存をいたしておりますのは、橋梁の上部工におきまして八万二千連のうち一万八千連、約二〇%でございます。 下部工につきましては、十三万二千基のうち四万六千基、約三五%でございます。
大正年代に藩閥横暴で、長州と薩州の横暴を怒って暴動が起きました。しかし、暴動が起きたら、その後、長州と——暴動を奨励するようなこと言っちゃまずいんだけれども、要するにその後は薩長横暴は静まったことは事実ですよ。私は警視総監になってびっくりしたんだけれども、歴代警視総監は薩摩ばっかりなんですよ、明治時代は。薩長横暴だった。
先生は大正年代であるし、私は昭和年代である。ただ年は一つしか違わないわけですから、お互いにそういうことになってきたと思いますし、個人的には私は先生のお話、非常によくわかるのです。 ただ、医学の体系としまして、明治以来西洋医学を日本は取り入れてやってきた。徳川時代にはずいぶんあったんだろうと思います。