2007-11-13 第168回国会 参議院 国土交通委員会 第4号
私、生まれも育ちも東京の下町でございまして、大正大震災、関東大震災の一番のひどいところでありました。今でも横網のところに、墨田区の、被服廠という慰霊といいますか祈念のお堂がありますが、子供のころに関東大震災のときの絵などを見て大変恐怖感を覚えたところがあるところでございます。
私、生まれも育ちも東京の下町でございまして、大正大震災、関東大震災の一番のひどいところでありました。今でも横網のところに、墨田区の、被服廠という慰霊といいますか祈念のお堂がありますが、子供のころに関東大震災のときの絵などを見て大変恐怖感を覚えたところがあるところでございます。
だから、大正大震災が終わった後、後藤新平市長が四十メーターの昭和通りをつくったのがせいぜいだった。戦後の戦災復興では二十メーター道路しかつくっていない。既にもう東京都は首都としての機能の限界に達しちゃっているんですよ。
「大正大震災大火災」、大劇本雄弁会、講談社の発行なんですね。これはもう写真から記事からいろいろありますけれども、これを読んでみると非常に興味深いのであります。この関東大震災の教訓というものを果たして我々がちゃんと生かしていたかどうかということも考えなきゃいかぬと思うんです。 この本の中に挟んでありました父親のメモがあります。そのメモはどういうことかというと、 大正十二年九月一日の大地震。
それが起こったのが明治維新であり、大災害は大正大震災ですね。それまでに江戸・東京の地というのは、元禄大地震、それから安政大地震ですか、それから大正大震災、その後昭和十九年、二十年の空襲、あれは人災ですけれども、四回起こっているんです。その間わずか二百五十年ぐらいしかたっていません。だから、今度の大災害は、これははっきり申し上げますが、二十一世紀初頭だろうというのが専門家の一致した意見なんですね。
○政府委員(横瀬庄次君) ちょうど大正大震災の直前ぐらいまでの間に、明治の終わりから大正の十年ごろまでの間に浅草を中心にして非常にオペレッタが流行したというのですか、普及したということは、今から考えますと非常に特異といいますか、今から考えれば想像のできないほどの分量で普及をしたということについては、私も本で読んだことがございますが、それがどうしてあるかということについては私も研究したことがございませんので
「関東大震災から得た教訓」陸上幕僚監部第三部作成、これは「戦時における国内警備は、」「広範多岐にわたり、大正大震災における軍の行動とは自ずとその性格を異にするものと考えられるが、以下当時における軍の行動のうち、参考とすべき事項若干につき観察を加えることにする」、こういう書き出しで、第一「治安維持に関連する法規体系の完整について」、こういう項目があるわけです。
自分は大正大震災のときに東京にいた。そこで水がなくてまいった。水がなかったから、千葉のほうから船で水を持ってきてもらって、それを使ったという話とか、米とかあるいはそうした備蓄のあれもなかったので、千葉のほうから持ってきて食べさせてもらったということを言っておりました。 それからもう一つは、プールなんか、コンクリでつくったものは全部水が漏れて役に立たなかった。自分は、いまかめを置いてある。
いわば砂を盛ったことになるわけですが、砂を盛ったコンビナート地帯が、もし大正大震災程度の地震が起きた場合にはどうなるかということについて、通産省なり建設省なりあるいは国土庁で、どういうふうに対策を立てて、どういうふうに研究しているか、そのことについて御答弁願いたいと思います。
○金瀬委員 車といい木造家屋の増加、石油コンロ、タンクローリー、それから東京ガスのガスの配管の増加、そうしたものを比べてみて、大正大震災の当時といまでは火災発生源というのは比べもののないほど多くなっているわけですよ。それに対して消防庁がいままでとってきた対策というのは十分であるかどうか、これでもういまの体制で十分であるかどうかということを聞いているわけですよ。
だからそういうことは十分検討されているわけですよそうなってくると、その大正大震災のときといまとは東京都の人口はどのぐらい違いますか。
房総半島がたいへんいま隆起しておる、また国の調査によると東京湾の湾口が四十年間に約三十センチぐらい縮んでおるということ、そうしたことを考えると、やがて関東大震災に次ぐような大きな地震が来るのじゃないかということが想定されるということで、その被害対策につきましてこの前いろいろ質問いたしましたが、その大正大震災当時と現在との間に、たとえば地震が起きた場合に火災が発生すると仮定した場合、火災の発生源がどのぐらい
○金瀬委員 大正大震災のときにも、それから戦災のときも同じですが、人間が最後に助かったのは何か、言ってみてくれませんか。震災でもいい、いま言ったのは地震で起きる被害の九〇%は火災だということをあなたのほうも認めているのだから、人間が最後に大震災とか、戦災で助かったのは何と何か、それを言ってみてくれませんか。何によって助かったか。死んだ人もたくさんいますよ。
これは大正大震災のあとから電話の自動化ということで導入されてまいりまして、昭和三十四、五年くらいまでは標準交換機として使用しておったわけでございます。これは現在この程度の設備がございます。次に三十六年からクロスバー型の交換機の導入を始めまして、現在これが約一千四百万端子ございます。
大正大震災は震度六でございました。そうして、冬季の夕食時に起こる。被害予想は、東京、神奈川、千葉、埼玉を中心に起こるという可能性をもとにしてやっておるわけです。その際における指揮系統の問題でございますが、これは防災関係の諸法令できまっておると私思います。その諸法令に従って自衛隊は救援活動を行なう。
そこで高速道路の問題はその程度にいたしますが、次にやっぱり問題にしておられる超高層ビルですね、これがまあ設計した人やら施工した人やらは、だいじょうぶなんだと言っておるんだけれども、やっぱり近ごろのムードとしては問題になっておるということなんですが、これは国民感情からいいますと、若い方はごらんにならなかったわけですが、われわれ年寄りは大正大震災のときに、あのころに最も堅牢であった、とてもりっぱな建築物
予想をこえた大火災、これは忘れる時分やってくるというのですかち、大正大震災から見ると、ずいぶん年数もたっています。いつ起こるかわかりません。そういう場合にはやはりいまの消防体制ではなくて、消防庁本部が全国的な組織を持つ。もちろん自衛隊の中に消防という一つの班といいますか、そういうものを設けて、それに訓練させておくということも必要でしょう。
たとえば大正大震災とか、あるいは昭和の初頭の経済不況なんかのときに、農林省の石黒さん等のおとりになったような数々のやり方につきまして、いまから回想してみられる値打ちがあるのじゃないか。今度家を建てるときには、震災の方向に対してこういう向き方で、こういう形のモデルに沿うたような農家住宅をつくれとか、あるいは負債整理と兼ねた精神作興とか、そういうようなことを農林省がお考えになってみられたらどうか。
これは、その当時としまして二億円以上の費用をかけ、二年以上の日子を費してやったことでありまして、幹部の中にも、それほどまでにやらなくてもというような説も出ないわけではありませんでしたけれども、私ども大正大震災のあとで、不使用管の未整理のために非常に苦い経験を持っておりますので、どうしてもこれは禍根を一掃しなくちゃならぬということで、あえてその本管の布掘りを断行いたしたのであります。
足尾銅山のストライキであるとか、あるいは米騒動に対してとか、あるいは大正大震災のときの朝鮮人の殺鐵であるとか、ずつと前にさかのぼりますと、憲法発布前の自由民権運動というようなものを日本の軍隊が、薩長軍閥の軍隊が弾圧いたしましたけれども、そういう警察の弾圧に民衆が対抗いたしまして、結局曲りなりにもプロシャ憲法でありますけれども、憲法議会が開かれた、こういうことになつておるのであります。