2005-06-02 第162回国会 衆議院 予算委員会 第22号
そこで、この二十五名、死刑七名、終身禁錮十六名、禁錮二十年一名、禁錮七年一名、そしてあと三名の方が、二人は途中でお亡くなりになり、一人、大川周明氏は途中で精神に変調を来して裁判から外れました。 この有罪判決を受けた二十五名の人たち、重大な戦争犯罪を犯した人たちであるという認識はありますか。
そこで、この二十五名、死刑七名、終身禁錮十六名、禁錮二十年一名、禁錮七年一名、そしてあと三名の方が、二人は途中でお亡くなりになり、一人、大川周明氏は途中で精神に変調を来して裁判から外れました。 この有罪判決を受けた二十五名の人たち、重大な戦争犯罪を犯した人たちであるという認識はありますか。
大川周明は私の中学の先輩でありますし、北一輝はすぐ隣の県の方でございますが、右翼というのは、日本の国体、天皇というものを極めて大切に思った人たちではありましたけれども、彼らがつくりました実質上のプログラムは完全なる共産主義あるいは過激なる社会主義のものでありました。
私ごとでございますが、先生も大川周明についてお書きになっておられるように、私は到底及びませんが、アラブそしてイスラムに対して、これまで私なりの研究なども続けてまいった一人でございます。その中で、アラブの国連、アラブ連盟に加盟する条件といたしまして、まさにナショナルアイデンティティーを求めているわけでございます。
ただしかし、行動的にはとてもあんなものはついていけた筋合いのものじゃない、そういう認識、私は長官とその点は同じ考え方に立つのですけれども、この種のことというのは北一輝、大川周明という人のものの考え方、ぼくらは戦争中ですから長官と同じように一緒に兵隊に行ったほうですから、ずいぶん読んだり読まされた機会がありました。
ただ、思い当たりまするのは、占領下に開かれました連合軍の極東軍事裁判において、かの大川周明氏が、突然東条英機氏の頭上を連打した事件がありました。大川周明氏は、精神鑑定の結果は、精神異常者として軍事裁判から除外されました。
第一次大戦後に、日本は、工業力が非常に発展をして、日本の製品を海外に輸出をするという、こういう必要に迫られた当時の経済的な状況、あるいはまた、思想的な面からいえば、日本主義、国粋主義、国家主義が台頭して、黒龍会とか、浪人会とか、国本社がつくられ、軍部内には青年将校の秘密結社が、大川周明等によってはかられていた。
二・二六事件を見ましても、五・一五事件を見ましても、北一輝氏、西田税氏、大川周明氏など、必ずしも党員を持っていなかった。自分の個人の勢力があれだけの影響力を及ぼして、青年将校を動かして、日本の右翼革命をやったのでありますから、私は、左翼の団体を取り締まる考えをもっては、右翼の勢力を取り締まることは、なかなかむずかしいのじゃないかと思うのであります。
私の聞いておるところでは、三月事件、大川周明氏、橋本欣五郎氏を中心とする軍のクーデターですが、これは明らかに犯罪なんです。当時の秦憲兵司令官が死刑を主張したのです。これは私はっきり知っているのです。ところが安達内務大臣等が間に入ってこれを穏便に済ました。若槻内閣のときです。それがそもそもの始まりだったのです。軍の上層部あるいは安達内相が軟論でこれを二葉のうちに刈りとらなかった。
これはその後いろいろ調べてみましたが、大川周明君が近来あの翻訳を、大体アラビア語を参考としていたしておりますが、そういうことも言ってきております。
この間大川周明が出て来て、若いやつをそそのかして、国を汚濁しているところの池田とか一万田、吉田を殺しに行かなければならぬということで、そのために護衛がつけられた。そういう事態が日本の国に起きている。
すなわち大正七年の老荘会、これは政治団体というほどのものではない、懇話会程度のものであつたようでありますが、これに大川尚明、権藤成卿、鹿子木員信、満川亀太朗、北一輝、堺利彦、島中雄三、高畠素之というような人が集まつているようでありますが、こういう流れが翌大正八年の大川周明、北一輝などの猶存社の流れとなり、それから大正十年の上杉愼吉、高畠素之氏らの経綸学盟となり、その後ずつといろいろな分派を生じておりますけれども