1986-04-02 第104回国会 衆議院 社会労働委員会 第8号
なお、過去のガードマン、警備員による労働争議についての介入、その過程における暴力事案の状況というようなことでございますけれども、実は警備業法が制定されましたのは昭和四十七年でございますが、その前の昭和四十五年、四十六年当時につきましては、例えば報知新聞社における争議とか細川鉄工所における争議とか本山製作所における争議等におきまして暴力事案の発生がありまして、それが大きな社会問題になった、それが一つのきっかけになりまして
なお、過去のガードマン、警備員による労働争議についての介入、その過程における暴力事案の状況というようなことでございますけれども、実は警備業法が制定されましたのは昭和四十七年でございますが、その前の昭和四十五年、四十六年当時につきましては、例えば報知新聞社における争議とか細川鉄工所における争議とか本山製作所における争議等におきまして暴力事案の発生がありまして、それが大きな社会問題になった、それが一つのきっかけになりまして
内部資料によりますと、弟の氏平毅さんは、産業報知新聞社、後の産報会社、これが尼信の会員資格を得たことになっておりますが、これが会員名簿です。この会員名簿を見ますと、どこにも「会員」というところはありません。本社は東京都中央区何とか、連絡先が大阪府東何とかです。これは会社に関係なく、この方の末の弟の氏平敏昭さんの単なる住宅なんです。これは事務所じゃありません、個人のうちです。
この防衛年鑑刊行会は、元報知新聞社社会部次長、出版協同専務であられた伊藤斌氏が編集責任者でございまして、行政監督上防衛庁とは関係のない民間団体でございます。なお、昭和五十二年版からは株式会社防衛年鑑刊行会が発刊をいたしております。 防衛庁との関係でございますが、防衛庁は、防衛年鑑刊行会の依頼を受けまして、昭和三十年初版の刊行に当たりまして監修を行いましたが、それ以後は監修を行っておりません。
東京の報知新聞社の争議に出たり、御指摘のございました那珂湊の争議にも出たり、そのほか、チッソの株主総会に出たり、あっちこっち、細川鉄工所にも出ておりますし、まあ、札つきでございます。
そこで、次の問題に移りたいと思うのですが、警備会社が労働争議に介入しているという事例が非常にあるという問題ですね、最近の事例だけちょっと拾ってみましたが、報知新聞社の争議に関して、綜合警備保障会社、中央警備保障会社、特別防衛保障会社等が介入をいたしております。また、宮崎放送につきましては、中央警備保障会社が介入をいたしております。
四十五年八月十九日に第一糖業宮崎営業所の争議、四十五年十二月十四日に宮崎放送の争議、それから四十五年に時事通信社の争議、四十五年五月に報知新聞社の争議、四十五年四月に那珂湊市のガードマン採用事件等があったわけですが、これはさっき政府側が説明をした事案です。
したがいまして、四十五年中盤ごろからの事犯として、一応世人の注目を引きましたのは、チッソの株主総会であり、あるいは最近では、那珂湊の問題であり、また、報知新聞社の事件でありますとか、あるいは、昨年度の成田の代執行にからみまするガードマンの存在でありますとか、そういうところが一応大きなものとして世上に論ぜられたというふうに承知しております。
○上子参考人 私はその辺があまり詳しくないのですけれども、スポーツ紙では報知新聞社。それからちょっと特殊なんですが、大阪本社と西部本社が別会社になっております。大阪本社は大阪読売新聞社というのが正式な呼称で、東京の読売新聞社とは別になっております。それから、世間で読売新聞西部本社といっておりますのは、読売興業、これは巨人軍なんかを経営している読売興業が経営者になっております。
このガードマンと称する暴力団は、報知新聞社内に現在おって、そして組合員が身の危険を感じているというふうな現状なんです。これはもう争議対策を越えて、すでにこれは人道問題です。労働省は、こういうようなことに対しては、春闘以上に関心を持たなければならないのじゃないかと思うのですが、この問題を労働省では知っておられますか。
長じて県立旭農業学校を経て大東文化学院に進み、昭和八年同学院を卒業後、報知新聞社に入社し、政治記者となられました。かねてより宿願の新聞記者となられた君は、やがて北京特派員、次いで論説委員等となって盛んに健筆をふるい、縦横の論陣を張られたのであります。
長じて大正九年明治大学政治経済科を御卒業になり、報知新聞社に入社し、新聞記者としての体験を通じて後年御活躍の素地を養われました。その後における君の活動は、政治、経済、文化、その他各分野にわたって実に目ざましいものがあったのであります。 君はまた、学生時代からスポーツに親しみ、特にマラソンの選手として活躍しておられました。
その後、報知新聞社社員、東京毎夕新聞社社員となって操觚界で活躍されましたが、やがて故郷に帰り、農民運動のすぐれた指導者として、みずから農民の先頭に立たれるととも、農村青年の指導啓発に日夜努力を続けておられました。 先生は、昭和二十二年の第二十三回衆議院議員総選挙に千葉県第二区より出馬し、みごと当選の栄を得られ、その後現在に至るまで連続五回当選、在職十年十カ月に及んでおられます。
君は、多忙なる政治活動のかたわら、昭和十四年には報知新聞社社長の要職にもつかれ、また産業方面にも活躍するなど、その偉大なる足跡は広く各方面に残されておるのであります。 昭和二十年八月終戦となるや、同君は、日本再建のためには新鮮にして強力なる政党の存在こそ最も必要であると考え、年来の盟友鳩山一郎君ら同志と相はかり、民主主義政党の結成に奔走せられました。
お手許の履歴書で御承知の通り、竹尾君は、大正七年三月東京外国語学校露語科卒業後、朝鮮銀行、報知新聞社、東京毎夕新聞社、国士館高等拓植学校等に在職の後、昭和二十二年四月以来、衆議院議員に引続き当選しておりますが、この間、昭和二十六年十二月には、文部大委員長となり、教育、文化関係の審議に尽力したものであつて、且つ美術に関する造詣も深いものであります。
それから第二の資本構成については、ここに拝見をいたします日刊新聞社資本構成調査表というものを拝見しますと、先ず第一に朝日新聞でありますが、この新日新聞の主要株主、これは朝日信用購買組合というのが五万八千余株、上野精一君が四万一千株、村山於藤君三万五千株、村山長挙君が三万一千株、それから報知新聞社では岡田彦七郎君が一万九千味、佐々木嘉助君が一万七千株、毎日新聞でありますと、本田親男君が二千五百株というようなふうに