2014-10-29 第187回国会 衆議院 文部科学委員会 第3号
○宮本委員 ぜひ委員の皆さんも現場へ行って見ていただけばわかるんですが、往時の姿を体験すると言うんですけれども、この第一次朝堂院跡というのは、今お話があったように、セメントをまぜた真砂土によってべたっと、ただ単なる平地に舗装されたという状況なんです。それで、全面フラットの舗装にするというのは、この公園基本計画のどこにも書いてはおりません。
○宮本委員 ぜひ委員の皆さんも現場へ行って見ていただけばわかるんですが、往時の姿を体験すると言うんですけれども、この第一次朝堂院跡というのは、今お話があったように、セメントをまぜた真砂土によってべたっと、ただ単なる平地に舗装されたという状況なんです。それで、全面フラットの舗装にするというのは、この公園基本計画のどこにも書いてはおりません。
○舟引政府参考人 第一次朝堂院広場につきましては、文化庁の方で平成二十年五月に取りまとめられました特別史跡平城宮跡保存整備基本構想推進計画の中で、「第一次朝堂院については、第一次大極殿院復原が完了した時点で、建物復原の可能性も含めて再度検討の対象とする。」というふうに書かれてございます。 国土交通省としても、同様に考えているところでございます。
○有松政府参考人 第一次朝堂院におきましては、奈良文化財研究所が発掘調査を行いましたけれども、この第一次朝堂院における発掘調査面積は、第一次朝堂院の三割程度でございます。
藤原宮の現在の指定は、この地図でごらんいただきますと、まん中に黒く塗ってあるところが現在特別史跡として指定されておるわけでございますが、その外側の一キロ平方の部分が藤原宮の宮城というように推定されておるわけでございますが、現在指定されておるのはそのうちの一部、朝堂院のところに相当する部分だけが特別史跡に指定されておる、こういう状況になっておるわけでございます。
まず、藤原宮跡の問題について申し述べますと、現在特別史跡に指定されておりますのは、戦前日本古代文化研究所が発掘調査を行なって明らかになった部分、つまり大極殿を正殿とする朝堂院の部分のみでありましたが、最近桜井市と大和高田市を結ぶ道路の交通緩和のため、宮跡の指定地の北部を東北から南西に通過する国道百六十五号線橿原バイパスの建設が計画され、用地の買収が行なわれるに至りました。
前のほうが儀式あるいは政治をおとりになりました朝堂院、一、二、三、四……八とそれから前のほうに二つずつの十二あります。あるいはこれは十二堂とも申します。その前のほうに朝集殿というのがあります。これで大体儀式もしくは政治をなさる場所が一応ここまでで区切られます。このあとは、いままでの記録とかあるいは発掘の結果、平城宮とか難波宮とか、それの結果内裏があるという予想はついていた。
それで戦争にもなりますし、もうそういう仕事ができなくなりまして、一応朝堂院は確認されたということで、これは打ち切りになったわけでございます。当時たくさんの発掘品などもございましたが、それは鴨公小学校に一応貯蔵して、そして皆さんにお見せするということになったわけであります。土地は全部埋め戻しました。
○坂本参考人 お説のとおり、朝堂院はやはり正式な儀式をするところでありますから、そんなにいまのような木簡が出たということは聞いておりません。そのほかのかわらでありますとかそういうものは出ておるのでございますけれども、木簡は全然出ていなかったのであります。
戦前に、一部、大極殿あとの調査が行なわれまして、大極殿を含む朝堂院等は史跡に指定されておったのでありますが、今般問題になりましたのは、指定地の北になる部分でございます。
それで内裏推定地というのがある、朝堂院があって、大極殿があるわけですから、そのあとに内裏というものがあるということは予想できるわけでしょう。これについてどうですか、発掘をして、どこまで——内裏というのは大体どのくらいの地域にあるか、これは内裏推定地域はどこだというようなことは全然わからぬのですか、どうですか。
大極殿と朝堂院の部面については、昭和九年から十八年間の調査で特別史跡として指定されていて、内裏のところだけが指定されてない。ですから、ここのところを道路が横切るわけですがね、そうすると、大臣の考え方としては、これはいろんな所有者の関係とか、何とかで、トレンチは四個入ることになっていますが、あとどうなるかわからぬということで待っているわけですか、どういうことになるんですか、これは。
○藤島参考人 平城宮というのは方八町、中に朝堂院あり、内裏あり、諸官庁あり、お庭あり、それが実に珍しくきれいに残っている可能性が多分にある。これはほかにない。そしてあれだけのものがあって初めてその当時の宮廷の全機構がわかる、それからさらに諸官庁の機構がわかるというので、その一つを欠いても工合が悪いと思うのです。
つまり正月元日の拝賀は大極殿で、朝堂院で行ないますが、そのあとの七日にも宴会があります。あるいはときたまにもあります。その時分の宴会は、よく南苑において行なう、ということがあります。だから字の面で申しますと庭みたいですが、実はそうではないので、これはりっぱな建物があったと考えられます。
大体におきまして、この方八町の中は朝堂院と内裏があり、そのほかのところは町のように区画されて、諸官庁があったことは、そこにあります平安宮の宮城の図をごらんになりましてわかるようなわけでありますが、それにかなり類以したような状態でこの平城宮社もあったということは、先ほどのお話と、そこのまん中の図面でごらんの通りです。