1950-04-28 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第21号
このラーゲルは一名国際ラーゲルとも委し、收容せられておる人々は、私が参りましたときは、無論ドイツ人が主でありました。その他にハンガリア人、ルーマニア人、フインランド人、イタリア人、ユーゴスラビア人、それからポーランド人というようなものがおり、日本人は約二十名くらい、武部長官であるとか、村上中将、谷塚中将というような方であります。
このラーゲルは一名国際ラーゲルとも委し、收容せられておる人々は、私が参りましたときは、無論ドイツ人が主でありました。その他にハンガリア人、ルーマニア人、フインランド人、イタリア人、ユーゴスラビア人、それからポーランド人というようなものがおり、日本人は約二十名くらい、武部長官であるとか、村上中将、谷塚中将というような方であります。
国際ラーゲルと同じです。至るところ、の国の人間がみなおりますから。大体日本人の收容所でも十幾つあつた。その收容所の中には二千人くらい、六百人くらいのところもあります。ドイツ人のまざつておるところもあります。そこのところで、われわれは一歩外に出るにしても、劍つき鉄砲がなかつたら出ることもできません。柵外に出たら殺される。彼らは交通証明という証明書をもらう。
そこはドイツ人を主といたしまして、オーストリア人、ハンガリア人、チェッコスロバキア人、ルーマニア人と、各国の人がおりまして、正しく国際ラーゲルの観を呈しておりますと共に、そのラーゲルの一部を使用いたしまして、全ソ連地域におりまするドイツ人から選抜いたしまして、ソ側の直接なる政治教育が五ヶ月ごとに繰返し繰返し教育が行われておりました。私はそこのラーゲルに昨年の九月二十一日までおりました。
○千田正君 種村証人にお伺いしますが、あなたが四九年の九月一日までモスコーの国際ラーゲルにおられましたが、更に引揚げられてハバロフスクに移られた。そのとき二名の人が残つた。この二名の人はどういうわけで残つたのであるか、その点を一つ伺います。