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17件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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2002-03-28 第154回国会 参議院 総務委員会 第7号

高橋氏は、改変の目的が日本軍の犯罪を裁いた法廷核心部分を隠し、法廷の意義を評価するコメンテーターの発言を削除する方向であったと言っておりまして、もう一人の出演者の方は、米山さんという方ですが、別のところで、右翼系国民新聞右翼団体のNHKに対する様々な圧力や直接的示威行為によって放送内容大幅改変に功を奏したと記してあると、こう紹介されております。  

八田ひろ子

1997-11-27 第141回国会 衆議院 消費者問題等に関する特別委員会 第5号

福沢諭吉が起こした時事新報あるいは徳富蘇峰国民新聞あるいは報知新聞とかあるいは万朝報とか、これはもうそれぞれその時代にとって非常に重要な役割を果たした報道機関であったと思いますが、これが過当競争によってどんどんつぶれていった。昭和の初めのそういう教訓があるわけであります。  

小池唯夫

1997-03-28 第140回国会 参議院 予算委員会 第17号

新聞社に抗議しましたら、新聞社は恐れ入りました、今後は慎みますみたいなことの返事があったということでございますが、その後、共同通信の「編集週報」及び国民新聞記事が、どうもこれも内部から出たようなことを含めてのそういう記事が載っている。こういうことでございますが、裁判所はその後どういう調査をやりましたか。

片山虎之助

1979-07-11 第87回国会 衆議院 法務委員会 第20号

鈴木会長もジャーナリストの大先輩でございますが、国民新聞と伺っておりますが、恐らく国民新聞を志望されて入られたのではないかと思うのです。  それがあらゆる社会内部で、いや、これは公共性が高い、公共性はいろいろ理屈はどうにでもつきますから、公共性が高いのだから、ここの部門ではひとつドラフトにかける、こういうことになったら大変えらいことになるのではないか。

小林正巳

1955-08-01 第22回国会 衆議院 行政監察特別委員会 第18号

それから国民新聞に就職いたしまして、その後市会議員を二期務め、議員の在職中に昭和十二年に日支事変に出征いたしました。そうして、帰って参りましてから、終戦後郷里に帰りまして、昭和二十二年四月六日に地方自治団体の首長の公選が行われましたときに、当時はまだ合併いたしませんので田村郡二瀬村と申しましたが、その合併いたします前の二瀬の村長に当選いたしました。

安藤武

1954-04-03 第19回国会 衆議院 行政監察特別委員会 第17号

社主が三浦さんで、金が足りなければ三浦さんのところに行つて金をもらつて来て、給料を払い不足金を払うというような状態を続けておつたのでありますが、三浦さんもほとほと手を焼かれて、もう金が出ないという状態になつたときに、後藤勇君は国民新聞政治部長をやつておつた当時からの私の古い友人でありますが、その後藤君が私のところに白羽の矢を立てまして、私は銀座に事務所を持つておりましたが、毎日々々実に根よく私を説得

山崎一芳

1953-07-24 第16回国会 参議院 議院運営委員会 第25号

野村君は、明治四十年九月早稲田大学を卒業して、大正元年十一月中央新聞社政治部記者となり、爾来ジヤーナリストとして活躍し、その間、国民新聞社政治部記者となり、その後東京朝日新聞社に入社し、同社政治部長論説委員編集局長代表取締役等に就任して後、同社社友となりましたが、又他方、行政監察委員全国選挙管理委員会委員地方財政委員会委員長電波監理審議会委員等を歴任し、現在旧軍港市国有財産処理審議会委員及

江口見登留

1951-05-17 第10回国会 衆議院 法務委員会 第25号

何かそういう例はないかと実は本日ここへ参りますについても探したのでありますが、過去には野間一家報知新聞に対する投資というようなこともございましたが、それから先ほどの国民新聞の問題というふうなこともございましたけれども、どうも経営者の適宜の措置によつておるのでありましようが、そういうことはないように考えております。お答えにならぬかもしれませんが……。

福島俊雄

1951-05-17 第10回国会 衆議院 法務委員会 第25号

一つの例を申し上げますれば、往年国民新聞において、その名前をあげることはどうかと思いますが、ある相当有名な人が株を買い占めまして、そうしてほとんど一夜にして新聞の性格を一変してしまつた。それは社会にも決していい結果を及ぼさないという事例かあるわけでございます。こういつた例は外国においてもいろいろあるそうでございます。この点が一番大きな事由でございます。

神戸岩男

1951-05-17 第10回国会 衆議院 法務委員会 第25号

他の方では先ほど朝日の神戸さんからお話があつたのですが、国民新聞においては財閥の力が一時的に入りまして、例の徳富蘇峰氏が昭和四年の一月に、非壯な訣別の辞を国民新聞紙上に書いたのです。そうして徳富ざんは国民を去られたという問題はあります。がこれも百パーセント資本力をつぎ込んだという問題ではございません。ただその財閥が非常に干渉いたしまして、遂には蘇峰氏の筆にまで交渉した。

福島俊雄

1951-03-19 第10回国会 衆議院 文部委員会公聴会 第1号

次は学識経験者として長滝武君でありますが、学識経験者につきましては、先ほどから特に御紹介しておりますから、一応先例によつて申し上げますが、長滝君は明治大正昭和を通じて日本最高権威者である記者といわれた徳富蘇峰先生に数十年間にわたつて師事され、君もまた国民新聞及び今日の毎日新聞の前身であります東京日日新聞蘇峰先生と一緒に長く在社せられまして、特に文教方面文部省担当記者として、数十年間にわたつてその

岡延右エ門

1949-11-19 第6回国会 衆議院 予算委員会 第5号

私が言うのは、一般の国民、新聞を見た人もそうでありますけれども、結局私たちから見るならば、このバランス——この国会の本会議に出ることが重要であるか、また渉外関係の人に会わなければならぬとすれば、その人にどうしても総理が会わなければならぬかというような、バランスの問題に対して、とかくの批評が出るのであります。私たちはそういうことがわからぬでおるならばいいのであります。

稻村順三

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