2002-03-28 第154回国会 参議院 総務委員会 第7号
高橋氏は、改変の目的が日本軍の犯罪を裁いた法廷の核心部分を隠し、法廷の意義を評価するコメンテーターの発言を削除する方向であったと言っておりまして、もう一人の出演者の方は、米山さんという方ですが、別のところで、右翼系国民新聞も右翼団体のNHKに対する様々な圧力や直接的示威行為によって放送内容の大幅改変に功を奏したと記してあると、こう紹介されております。
高橋氏は、改変の目的が日本軍の犯罪を裁いた法廷の核心部分を隠し、法廷の意義を評価するコメンテーターの発言を削除する方向であったと言っておりまして、もう一人の出演者の方は、米山さんという方ですが、別のところで、右翼系国民新聞も右翼団体のNHKに対する様々な圧力や直接的示威行為によって放送内容の大幅改変に功を奏したと記してあると、こう紹介されております。
福沢諭吉が起こした時事新報あるいは徳富蘇峰の国民新聞、あるいは報知新聞とかあるいは万朝報とか、これはもうそれぞれその時代にとって非常に重要な役割を果たした報道機関であったと思いますが、これが過当競争によってどんどんつぶれていった。昭和の初めのそういう教訓があるわけであります。
新聞社に抗議しましたら、新聞社は恐れ入りました、今後は慎みますみたいなことの返事があったということでございますが、その後、共同通信の「編集週報」及び国民新聞の記事が、どうもこれも内部から出たようなことを含めてのそういう記事が載っている。こういうことでございますが、裁判所はその後どういう調査をやりましたか。
国民新聞につきましても、そこで指摘されました裁判官につきまして再度事実を確認しておりますけれども、この裁判官を通じて秘密が漏れたという事実は認められませんでしたので、国民新聞に対しましても書面によりまして抗議をしております。
これが国民新聞に載っておりますというので記事を調べてみたら、事実二日間にわたってそのことの事実関係と当時の警視総監の談話だとかいろいろなものが載っておりました。 要するにこれと同じことですよ。
幾つか紹介をいたしますと、憲法調査建議会、憲法の会、国柱会——国の柱ですね、それから国民新聞社、こういうのがずっとたくさん名前が出ておりまして、この中に隊友会、こういうのが出てきます。
鈴木会長もジャーナリストの大先輩でございますが、国民新聞と伺っておりますが、恐らく国民新聞を志望されて入られたのではないかと思うのです。 それがあらゆる社会の内部で、いや、これは公共性が高い、公共性はいろいろ理屈はどうにでもつきますから、公共性が高いのだから、ここの部門ではひとつドラフトにかける、こういうことになったら大変えらいことになるのではないか。
そこで伺い、かつ期待したいのは、核の沖繩撤去の問題、去る沖繩国会でも野党こぞって、あるいは国民、新聞そういう方面もはっきりしたものをとりたいという希望もあり、質問も、政府の答弁も苦しい、むずかしいながらも何とかはっきりして皆さんに不信が残らないようにしたいという答弁であったと思う。
昭和六年国民新聞社に入社、初めは社会部に、次いで政治部に移られましたが、君の明朗率直にして、しかも誠実なるお人柄は周囲の人々に親しまれ、取材の困難な方面にも好意をもって迎えられ、当時の重臣たちも、君には特に信をおくというふうであったとのことであります。
もう皆さん、新聞で御承知のとおり、私は昭和十年の三月二十三日に吉田石松老人に初めて裁判所の記者クラブで会いまして、その翌日時事新報の中島亀次郎氏、それから国民新聞におりました遠山寛氏、私と三人で、日比谷公園の中の高柳亭へ連れていきまして、いろいろ話を聞いたわけです。
それから国民新聞に就職いたしまして、その後市会議員を二期務め、議員の在職中に昭和十二年に日支事変に出征いたしました。そうして、帰って参りましてから、終戦後郷里に帰りまして、昭和二十二年四月六日に地方自治団体の首長の公選が行われましたときに、当時はまだ合併いたしませんので田村郡二瀬村と申しましたが、その合併いたします前の二瀬の村長に当選いたしました。
社主が三浦さんで、金が足りなければ三浦さんのところに行つて金をもらつて来て、給料を払い不足金を払うというような状態を続けておつたのでありますが、三浦さんもほとほと手を焼かれて、もう金が出ないという状態になつたときに、後藤勇君は国民新聞の政治部長をやつておつた当時からの私の古い友人でありますが、その後藤君が私のところに白羽の矢を立てまして、私は銀座に事務所を持つておりましたが、毎日々々実に根よく私を説得
野村君は、明治四十年九月早稲田大学を卒業して、大正元年十一月中央新聞社政治部記者となり、爾来ジヤーナリストとして活躍し、その間、国民新聞社政治部記者となり、その後東京朝日新聞社に入社し、同社政治部長、論説委員、編集局長、代表取締役等に就任して後、同社社友となりましたが、又他方、行政監察委員、全国選挙管理委員会委員、地方財政委員会委員長、電波監理審議会委員等を歴任し、現在旧軍港市国有財産処理審議会委員及
私の記憶しておるだけを数えてみましても、明治三十八年の九月の初め、ポーツマス条約に不平な国民が、不平な連中が東京で騒擾を起し、交番の焼打ち、国民新聞社を攻撃するというようなことがあつたのです。
何かそういう例はないかと実は本日ここへ参りますについても探したのでありますが、過去には野間一家の報知新聞に対する投資というようなこともございましたが、それから先ほどの国民新聞の問題というふうなこともございましたけれども、どうも経営者の適宜の措置によつておるのでありましようが、そういうことはないように考えております。お答えにならぬかもしれませんが……。
一つの例を申し上げますれば、往年国民新聞において、その名前をあげることはどうかと思いますが、ある相当有名な人が株を買い占めまして、そうしてほとんど一夜にして新聞の性格を一変してしまつた。それは社会にも決していい結果を及ぼさないという事例かあるわけでございます。こういつた例は外国においてもいろいろあるそうでございます。この点が一番大きな事由でございます。
他の方では先ほど朝日の神戸さんからお話があつたのですが、国民新聞においては財閥の力が一時的に入りまして、例の徳富蘇峰氏が昭和四年の一月に、非壯な訣別の辞を国民新聞紙上に書いたのです。そうして徳富ざんは国民を去られたという問題はあります。がこれも百パーセント資本力をつぎ込んだという問題ではございません。ただその財閥が非常に干渉いたしまして、遂には蘇峰氏の筆にまで交渉した。
次は学識経験者として長滝武君でありますが、学識経験者につきましては、先ほどから特に御紹介しておりますから、一応先例によつて申し上げますが、長滝君は明治、大正、昭和を通じて日本で最高権威者である記者といわれた徳富蘇峰先生に数十年間にわたつて師事され、君もまた国民新聞及び今日の毎日新聞の前身であります東京日日新聞に蘇峰先生と一緒に長く在社せられまして、特に文教方面、文部省担当の記者として、数十年間にわたつてその
私が言うのは、一般の国民、新聞を見た人もそうでありますけれども、結局私たちから見るならば、このバランスを——この国会の本会議に出ることが重要であるか、また渉外関係の人に会わなければならぬとすれば、その人にどうしても総理が会わなければならぬかというような、バランスの問題に対して、とかくの批評が出るのであります。私たちはそういうことがわからぬでおるならばいいのであります。