2021-03-30 第204回国会 参議院 総務委員会 第9号
それは、時代の検証の材料として、NHKが中立性を保ちながら回想録や証言等を撮りためてきたものであり、それを見た視聴者は、映像から見るそういった証言によってそれぞれが考える機会として捉えているのではないでしょうか。記憶というのは曖昧なものなので、どうしても時の政権によってすり替えられる可能性も否定できません。だからこそ、記録を残すこと、これはとても大事なことではないかなと考えます。
それは、時代の検証の材料として、NHKが中立性を保ちながら回想録や証言等を撮りためてきたものであり、それを見た視聴者は、映像から見るそういった証言によってそれぞれが考える機会として捉えているのではないでしょうか。記憶というのは曖昧なものなので、どうしても時の政権によってすり替えられる可能性も否定できません。だからこそ、記録を残すこと、これはとても大事なことではないかなと考えます。
では、ちょっと防衛大臣、次の問いの三番なんですが、先生方、配付資料の一ページ目なんですが、岸信介元総理の回想録でございます。
外務省のホームページに載っていた逐条解説、もうそのまま貼り付けておりますけれども、そうしたことを言っておりますし、実は岸大臣のおじい様でございます岸信介総理がこのときの総理でございますけれども、総理の国会答弁、また総理の回想録にも、日本は集団的自衛権を行使しなくていいという、そういう条文、条約を結んだということが書かれているわけでございます。
この懇談会のメンバーでしたあの有名な、憲法学の大家とも言われますけれども、芦部信喜先生、後に回想録というか、ジュリストという雑誌に当時のこと、会議の中身については非公開ということなので書いてはないんですけれども、こういうふうに書かれていました。元々、この懇談会というのは議論について一定の方向付けをしたり結論を出したりするものではなかったはずだったと、こういうふうに書いている。
この岡本梅次郎氏がそのことを「法曹」という雑誌で回想していたということを私も知りまして、これを、こういうことで国会図書館から取り寄せて読ませていただきました。
河村委員長には、こうした思いを持つ野党議員がいることをぜひ自覚していただき、委員会運営を回想し、猛省を促し、みずから辞任することを求めたいと思います。
私は、引退後に回想録として出すならまだしも、五輪準備のまとめ役である現職の組織委員会会長が、もう最重要パートナーであるJOC会長や都知事をこのように罵倒してしまったら、これ、準備活動が円滑に進むはずないじゃないですか。良好な信頼関係をつくれるはずがありません。 こうした森会長の著書についてどういう見解をお持ちでしょうか、発言について。
一方のクリントン氏の回想録を読むとこう書いてあります。もし軍事攻撃に踏み切った場合、甚大な犠牲者が双方に出るという厳しい予測も三週間前に報告されていた。このときは、カーター元大統領が訪朝して危機は回避されるということになりました。 このときの経緯、総理もこうした経緯は御存じですよね。
当時、制定時のときに、この小山さんという方が回想録とかでも述べているんですが、法律にきちんと書くか、それとも今のように大臣が告示で基準を決めるのかどうか、相当な議論があったそうです。
ペリーさんは後ほど回想録を書いていますのでそこに詳しく出ておりますけれども、報告書を提出する直前にカーター元大統領が平壌に訪問するというニュースが入ったと、このように言っております。しかし、我々は大量破壊兵器を使用する戦争の瀬戸際にあったというふうにも述べておりますし、北朝鮮からの先制攻撃の可能性も排除できなかったと、そこまで危機が進展していたということでございます。
○国務大臣(岸田文雄君) まず、御指摘の碑文については広島市で作成したものですので、政府として何か正式にコメントすることは控えなければならないとは思いますが、私の受け止めとして、例えば、当時の浜井市長、この回想録によりましては、この碑の前に立つ全ての人が人類の一員として過失の責任の一端を担い、犠牲者にわびることこそが世界平和の確立につながるとの思いが込められている、当時の浜井市長はそう回想しております
吉田茂の「回想十年」という本がございます。昭和三十二年に発刊されました。きょう持ってまいりましたが、このような本でございます。終戦直前から主権回復までの政治の激動が吉田茂の言葉として見事に描かれております。書かれている個別の内容の評価は別といたしまして、当時の状況を知る上で大いに参考になると思います。
何より、制定当時の責任者としての経験をつづった吉田茂著「回想十年」には、押し付けられたという点に、必ずしも全幅的に同意し難いとして、こう述べておられます。
そのときには、北朝鮮にいる駐在員の皆さんも、これは記事がありまして、彼の回想録ですけれども、ロスト・ゼア・テンパー、切れることもあったけれども言いたいことをしっかりと言って、そこから本当に腹を割った交渉が必要であるということもおっしゃっておりますし、また、公館があるからこそさまざまなレベルで、当時ですら金正日さんの批判を聞くというようなところまで、腹を割ってやったんだということも書かれております。
○国務大臣(岸田文雄君) まず、先ほどの碑文につきましては、御指摘の浜井市長の回想録の中にも、碑の前に立つ全ての人が、人類の一員として、過失の責任の一端を担い、犠牲者にわびることこそが世界平和の確立につながるとの思いが込められている、このように記述されていると承知をしております。
物心ついてから成人するまで、思えば長い灰色の時代でした、しかし今、当時を回想して、戦争中の苦労や食べ物のなかったつらさなどはほとんど覚えていない、ただ一つ、年とともに自由が圧迫されて、ついに全く死滅するに至ったその苦しさ、それをどうにもできない憤激だけが、きょうも忘れることができません、再び歴史の魔性に引きずられることがないために、我々は憲法の言うように不断の努力をもって自由を大切にし、日本社会の活力
最高裁の負担というのを最後に述べますが、藤田宙靖最高裁判事は、おやめになった後に、「最高裁回想録」の中で、一つの小法廷で三千件を処理すると。これは、現在は三千二百件に伸びております。このうち九五%が持ち回り審議と言われまして、これは合議するまでもなく上告棄却あるいは上告不受理ということで裁判長が判断して、一件書類の押印欄に判こを押す。全部判こを押すんだそうです。
これにつきましては、防衛研究所の中島信吾先生が「戦後日本の防衛政策」の中で書かれている、引用されているものをそのまま挙げさせていただきますと、当時、警察予備隊の警務局警備課長でありました後藤田正晴氏が次のように回想しています。
これは、岸総理自身の回想録と回顧録に出ている言葉でございます。私は総理としてアメリカへ行くことを考えていた。それには東南アジアを先に回って、アメリカと交渉する場合に、孤立した日本ということでなしに、アジアを代表する日本にならなければいけないという考え方で行ったわけであります。
やはり、それはもう、あのとき、ブッシュ大統領の回想録の中でも、うそをついたんじゃない、みんなが間違えただけなんだと、こういう言い方をされている。そういうことで戦争が始まってしまったということを、やはりもっと深刻に捉えなければいけないんだと思います。 日本の政策プロセスの中で検証作業というのが非常に弱いですね。