2018-02-16 第196回国会 衆議院 財務金融委員会 第2号
そんな中で、大分昔になりますが、嘉永七年、一八五四年、高橋是清、二・二六事件で暗殺されてしまいましたけれども、是清公は、総理を経験し、大蔵大臣を経験され、九月十九日生まれでいらっしゃいます。
そんな中で、大分昔になりますが、嘉永七年、一八五四年、高橋是清、二・二六事件で暗殺されてしまいましたけれども、是清公は、総理を経験し、大蔵大臣を経験され、九月十九日生まれでいらっしゃいます。
これが起こった年は嘉永七年の十一月の四日と五日でした。その被害が余りにも大きいということで、年号を嘉永から安政に変えるということをやったわけであります。 かつては百八十の改元を我が国は経験しておりますが、その半数が、災害あるいは疫病が全国的に大きな力を持ったということで年号を変えている。この安政もそうであります。 そして翌年、この東京で直下型地震が起きました。安政江戸地震であります。
○町村国務大臣 私もそう詳しいわけじゃございませんが、資料を見たところによれば、明治二年に明治天皇のおぼしめしによって、戊辰戦争で倒れた方々を祭るために創建をされた、後に、嘉永六年以降の国内の戦乱に殉じた方々、また外国との戦争、象徴的には日露戦争、日清戦争、また第二次大戦ということもあろうと思いますが、日本の国を守るために倒れた方々をあわせ祭ることになった神社であるというふうに承知をしております。
例えば、江戸から東京に移るとき、黒船がやってまいりましたのは、嘉永六年、一八五三年ですが、それから十年間は何の変化も起こっていないんです。安政の大獄等いろいろございましたけれども、行ったり来たり、むしろ保守化が進んだだけであります。 ところが、文久三年、一八六三年に、将軍家茂と、その後見役でありました後の十五代将軍慶喜が京都に移転します。
一つは、これは一八五三年、嘉永六年、黒船来航で、横浜、神戸など主要港を開港いたしました。一八七六年、太政官百五十四号の西洋型船水先免状規則以降七十三年間任意の水先制度が続いてきました。一九四九年、戦後でありますが、昭和二十四年、GHQの要請を受けまして、横浜、神戸、関門、横須賀、佐世保を強制水先、対象は国際航海に従事する全船舶。
例えばお茶の再製あるいは販売を一〇〇%やっているような会社、資本金が六百万円で二十九人ほどの従業員がおって何億という固定資産を持ってやっている会社、あるいはわさび漬けの会社、あるいは印刷会社、あるいはようかんをつくっている会社、非常にのれんが古くて、それぞれ慶応元年創業とか嘉永三年創業とか明治八年とか、そういう非常に古いのれんで株式会社になって営々としている会社でございます。
ペリーが嘉永六年に日本に来たとき、日本人に自分らの要求をのますときには、高圧的にやらなければこれはのまない民族だということを彼はオランダ等から教えられてきたということを読んだことがありますが、その高圧的な米国と交渉して世界に通用するルールができるのかどうか。やはり第三者も入れての多国間協議にするルールづくりが大切ではないかというふうに思うんです。
嘉永六年にペリーが来航して我が国に開国を求めるわけでございますが、我が国はいろんな面で苦痛、犠牲を払いながら開国し、近代国家へと脱皮してきたんだというふうに思います。ちょうどここ一、二年、まさに第二の開国が求められているというふうに思います。
一期は嘉永四年から明治三十三年で、第二期がちょうど国定読本ができた。その国定読本の一番確実な資料があるところから始めましょう、こういうお心がけでやっている、これも一つの見識だと思います。結構です。 それで、そのために予算は幾らついているのかということです。
また佐藤信淵は、嘉永二年に筆記させた「垂統秘録」のうち「小学校篇」で「慈育館」と「遊児廠」という保育所と幼稚園のようなものを構想しておりますが、いずれも実現はしておらないというふうに聞いております。
○佐野(文)政府委員 先ほども申しましたように、靖国神社は明治二年に嘉永六年以降国事に殉じた人々を奉斎、顕彰するために創建された招魂社に由来をいたします。明治十二年に靖国神社と改称されまして、以来終戦まで、正確には昭和二十一年の二月まで別格官幣社として関係法規のもとに運営されてきたものでございます。
○佐野(文)政府委員 靖国神社の場合には嘉永、安政以後、事変、戦争に殉じた人々を祭神としております。そして本殿、拝殿等の礼拝の施設その他の宗教施設を備えております。さらに、いまお尋ねの儀式でございますが、春秋の例大祭を初めといたしまして神道の祭祀を執行いたしております。そして祭神の神徳を広め祭神の遺族その他の崇敬者を教化育成する、こうした宗教活動を主たる目的といたしているわけであります。
○村松参考人 幕末に、弘化の後に嘉永が来て、嘉永の後に安政が来て、安政の後に万延が来て、それから文久と元治、慶応というふうに、非常に立て込んで年号が変わりました。これは幕末に黒船が来たり、地震があったり、いろんなことがあったものですから、そういうことで、ちょっと珍しいほど立て続けに年号が変わった。
嘉永六年、プチャーチンというのが日本にこの問題で長崎に来ますよね。それで下田条約を結んだ当人。その人が、長崎に来て、幕府あての書簡を出した。「エトロフ島も亦之諸島中の一つにして」と幕府あての書簡でちゃんと言っているんです。これは有名なものです、プチャーチンの書簡、こういうものがちゃんとあるわけでね。
それから、もう一度起こりましたのは嘉永六年、一八五三年でございますが、何分このときにはまだ北海道は大変人口も希薄でございましたし、しかとしたその記録もなかなか、いまからさかのぼって調べるということもむずかしゅうございます。
一八五三年、これは嘉永六年だそうですが、これも同じ。一九一〇年、明治四十三年、同様。一九四三年から四五年にかけて、これは昭和十八年から二十年にかけて、これもやはり同様に地震の被害。三十年から六十年の周期だと言われておりますね。これはもうすぐでしょう。こういうような頻発の地域でありながら、これは安全だと果たして言えるのかどうか。 それと、水源地帯を通過しているのですよ。
遠いところでは文政五年、嘉永六年、明治四十三年、こういうような地震も発生しておるようです。そうして昭和新山も現在活動中であります。そういうふうにしてみると、再びこういうような火山が活動するようなおそれがないということは断言できない。これはその個所ですよ。
王島山はかつて島でありましたが、幕末の嘉永五年に完成した福田新田により陸地となり、また南側は昭和二十一年に着手された干拓によって陸地化されたものであります。 現在、松江地区は、東側と南側は石油化学工場に、西側は発電所、製鉄工場に隣接しており、三方が工場地区に囲まれた状態となっております。
それからまた、七十一年たちまして嘉永六年、一八五三年に小田原付近でかなり大きい地震があった。マグニチュード六・五と推定されておりますが、これは江戸では震度四でございました。 こういうふうに、関東地震をかりに大型地震と申しますと、その間に幾つかの中型地震が起こっておる。そうしますと、いつかわりあい近い将来、マグニチュード七程度の地震は起こる可能性はある、こういうふうに考えられます。
十何年になんなんとして今日まで、零細なるあるいはまた離農、その政府の政策が手の届かないものでございますので、せっかくの移住をしたようなものの、日雇い人夫として、農業を離れて町に行くというようなさなかにおいて、御案内のとおり、さる二十八日には嘉永五年以来八十年来の大干ばつというのに襲われ、追い打ちを食らって二十八号台風、家屋の崩壊、全壊が千戸余りにものぼっておるわけでございます。