2021-02-17 第204回国会 衆議院 予算委員会 第12号
嘉数高台、前田高地、天久、そして首里に近づいてくる。もうこの首里城で三十二軍が攻められたときには終わりだ、陥落だと思っていたときに、三十二軍司令部は南部に撤退することを決めたのであります。南部は多くの住民が避難していた地域ですよ。多くの住民が避難していることを分かりながら軍隊を下げたわけです。
嘉数高台、前田高地、天久、そして首里に近づいてくる。もうこの首里城で三十二軍が攻められたときには終わりだ、陥落だと思っていたときに、三十二軍司令部は南部に撤退することを決めたのであります。南部は多くの住民が避難していた地域ですよ。多くの住民が避難していることを分かりながら軍隊を下げたわけです。
宜野湾市嘉数の高台に京都出身の戦没者の慰霊碑を建てるためであります。そのとき、空港から乗ったタクシーの運転手が、宜野湾市に入るところで車を停車させ、この場所で妹が殺された、アメリカ軍人ではない、暗に日本兵にということを言っていたそうであります。泣き続けていたと。その日から野中さんはずっと沖縄を思うようになった、このように話しております。
宜野湾市の国道三三〇号線、安里—宜野湾バイパスの嘉数バス停では、これまで、火木土は地元住民、月水金は地元の企業が清掃、除草、花壇の水やりなどを行い、国道を管理する南部国道事務所も年二回の管理を行ってまいりました。住民は、地域の子供たちが通学するバス停をきれいに安全に維持したいという思いから、二十年以上も自発的に美化活動に取り組んでいました。
次に、普天間飛行場の南西側に位置する宜野湾市の嘉数高台公園において普天間飛行場を展望し、防衛省沖縄防衛局から普天間飛行場の沿革と概要、米軍機の運用の現状等について説明を聴取いたしました。
私の生まれ育った沖縄本島中部の宜野湾市嘉数も沖縄戦最初の激戦の地であり、祖父母やおじ、おばたち多くが亡くなり、最後の戦場となった本島南部の摩文仁の平和の礎には、当時の嘉数地区の住民の半数を超える名前が刻まれております。 戦後も沖縄は米軍統治とされ、困難は続きました。四七年九月、米側に対し、二十五年から五十年、あるいはそれ以上、沖縄を米国に貸し出す方針が示された天皇メッセージの問題もあります。
私の生まれ育った宜野湾市嘉数地区は、当時日本軍が駐屯し、今日、普天間飛行場が見渡せる嘉数高台には住民が協力して陣地が構築されました。一九四五年四月一日に沖縄本島に上陸した米軍が日本軍と最初の激戦地の一つであり、七十二年前の四月九日から二十二日までの二週間にわたり激しい戦闘が続きました。
普天間飛行場に行かれて、その周囲から、嘉数台地とかあるいは普天間第二小学校辺りから御覧になって、その深刻さ、そしてその状況は、今日はずっと人権問題が語られてまいりましたが、そういう人権侵害にも相当するような実態だと私はかねてから思って、そういう指摘を申し上げてきたんです。
防衛大臣、普天間飛行場を見るときに、嘉数の高台公園へ行って展望台から見ましたよね。あのときに、反対側を向いて手を合わせましたか。
○佐藤正久君 今大臣が言ったのは摩文仁の方であって、嘉数と全然違うんですよ。嘉数の戦闘というのは、沖縄戦において非常に大きな戦争があったところなんですよ。普天間飛行場、あの宜野湾市、宜野湾市の市民に心を寄り添うのであれば、嘉数というところは非常に忘れてはいけない大事な戦争なんですよ。嘉数のあの高台公園には、だからそこに京都の塔があって、嘉数高地、嘉数谷、大きな戦争があったんですよ。
大臣は、一月二十三日、嘉数高台から普天間基地を視察しております。その際に、同基地のクリアゾーンについてはどういう説明を受け、大臣はクリアゾーンをどう認識しておりますか。
大臣は今回、嘉数高地でヘリ騒音に言及したようですけれども、前回説明受けたように、騒音はヘリだけではなく、FA18戦闘機のタッチ・アンド・ゴーもあるんですよ。 大臣、なぜ普天間基地にないFA18が普天間に来ていると思いますか。
嘉数高地、嘉数谷があって、まさに反斜面陣地で本当に日本軍が死守をしたすごいところなんですよ。元々ここの普天間という辺りは交通の要衝なんですよ、北部の国頭と那覇の方を結ぶ非常に大事なところ。そこから始まっているんですよ。そこに何で米軍が飛行場を造ったかと、分かっていますか、大臣。
宜野湾市においては、嘉数高台から普天間飛行場を視察し、町の中心部に広大な基地が存在し、ヘリコプターが上空を飛び交う光景を目の当たりにしました。続いて、基地の周辺に住む住民の方々から騒音に苦しんでいる現状などについて話を伺い、住民の方々の日々の不安を実感することができました。
まず、普天間飛行場の南西側にあります宜野湾市の嘉数高台公園において普天間飛行場を展望いたしますとともに、宜野湾市役所担当者から普天間飛行場の沿革と現状について説明を聴取いたしました。 次に、宜野湾市役所において伊波宜野湾市長と懇談を行いました。 伊波市長からは、普天間飛行場においては、ヘリが住宅地域上空を飛ぶという、米国では許されないことが行われている。
それから、十五日、十六日、連日沖縄に行かれて、沖縄の辺野古の基地を丘の上から、嘉手納飛行場、そして普天間飛行場はあの嘉数高台から御覧になりました。その結果につきましては、私は、思っていた以上にこれは沖縄の基地問題は深刻だなと、こういう強い思いを抱かれて外務大臣はお帰りになったんだろうと、こう思っております。
小野 晋也君 小野寺 五典君 小渕 優子君 尾身 幸次君 越智 隆雄君 近江屋 信広君 大島 理森君 大高 松男君 大塚 高司君 大塚 拓君 大野 松茂君 大野 功統君 大前 繁雄君 大村 秀章君 太田 誠一君 岡下 信子君 岡部 英明君 岡本 芳郎君 奥野 信亮君 加藤 勝信君 加藤 紘一君 嘉数
小野 次郎君 小野 晋也君 小野寺 五典君 小渕 優子君 尾身 幸次君 越智 隆雄君 近江屋 信広君 大島 理森君 大高 松男君 大塚 高司君 大塚 拓君 大野 功統君 大前 繁雄君 大村 秀章君 太田 誠一君 岡下 信子君 岡部 英明君 岡本 芳郎君 奥野 信亮君 加藤 勝信君 加藤 紘一君 嘉数
小野 次郎君 小野 晋也君 小野寺 五典君 小渕 優子君 尾身 幸次君 越智 隆雄君 近江屋 信広君 大島 理森君 大高 松男君 大塚 高司君 大塚 拓君 大野 功統君 大前 繁雄君 大村 秀章君 太田 誠一君 岡下 信子君 岡部 英明君 岡本 芳郎君 奥野 信亮君 加藤 勝信君 加藤 紘一君 嘉数
小野 次郎君 小野 晋也君 小野寺 五典君 小渕 優子君 尾身 幸次君 越智 隆雄君 近江屋 信広君 大島 理森君 大高 松男君 大塚 高司君 大塚 拓君 大野 功統君 大前 繁雄君 大村 秀章君 太田 誠一君 岡下 信子君 岡部 英明君 岡本 芳郎君 奥野 信亮君 加藤 勝信君 加藤 紘一君 嘉数
否とする議員の氏名 阿部 俊子君 秋葉 賢也君 麻生 太郎君 新井 悦二君 井澤 京子君 伊藤 信太郎君 伊吹 文明君 石破 茂君 石原 宏高君 稲田 朋美君 今村 雅弘君 江渡 聡徳君 江藤 拓君 遠藤 武彦君 遠藤 利明君 小里 泰弘君 小野寺 五典君 大島 理森君 太田 誠一君 岡部 英明君 嘉数
○前原委員長 この際、本案に対して、嘉数知賢君外二名から、自由民主党、民主党・無所属クラブ及び公明党の三会派共同提案による修正案が提出されております。 提出者から趣旨の説明を聴取いたします。三井辨雄君。 ————————————— 沖縄科学技術大学院大学学園法案に対する修正案 〔本号末尾に掲載〕 —————————————
○嘉数委員 局長、運営主体、どういう形でこの大学院大学を運営されるか、その主体、組織等について御説明いただきたいと思います。
嘉数知賢君。
平成二十一年五月二十八日(木曜日) 午後一時二十分開議 出席委員 委員長 前原 誠司君 理事 嘉数 知賢君 理事 仲村 正治君 理事 松木 謙公君 理事 三井 辨雄君 理事 江田 康幸君 安次富 修君 木原 誠二君 岸田 文雄君 清水清一朗君 冨岡 勉君 中根 一幸君 西村 明宏君 橋本 岳君
平成二十一年四月二十八日(火曜日) 午前九時一分開議 出席委員 委員長 今津 寛君 理事 江渡 聡徳君 理事 嘉数 知賢君 理事 新藤 義孝君 理事 中谷 元君 理事 仲村 正治君 理事 松本 剛明君 理事 山口 壯君 理事 佐藤 茂樹君 安次富 修君 愛知 和男君 赤城 徳彦君 小野 晋也君 大塚 拓君