1954-10-27 第19回国会 参議院 建設委員会 閉会後第8号
何もそんな今年の暮だの、一年だのと言つていないで、進めればいいじやないかという感じを持つておりますが、今申した通り、事務には事務の今までの慣例もありましようし、しきたりもありましようから、余りそういうことをむちやにすることもどうかということで、とにかく打切つて喧嘩別れになつたもの以外には、私どものほうではしないことにしておりまして、今の問題は渋江君の答弁の通り、三十年度の予算のめどがつきますれば政令
何もそんな今年の暮だの、一年だのと言つていないで、進めればいいじやないかという感じを持つておりますが、今申した通り、事務には事務の今までの慣例もありましようし、しきたりもありましようから、余りそういうことをむちやにすることもどうかということで、とにかく打切つて喧嘩別れになつたもの以外には、私どものほうではしないことにしておりまして、今の問題は渋江君の答弁の通り、三十年度の予算のめどがつきますれば政令
と述ぶ)ただ、只今の加賀山委員の動議をお出しになるというお気持の底に流れるものは、私ども理解できないことはないのでありますが、およそこれらの事柄については、要するにこれを実現するかしないかというところにキー・ポイントがあるのであつて、この際、とにかく国会を軽視する、政府としての国民に対する義務を怠るものであるという烙印を押して、何とはなしに喧嘩別れするという形をとることは、結局折角の今までの努力を、
それならもう僕たちも君らを見ることができないというようなことで、藤原委員の申されたように喧嘩別れの形になつたのでありますが、私もそのときに思うのは、それが若し事実ならば非常な不穏な情勢であると私は考えます。而も全国から患者が続々と上京するというような、或る療養所のごときは全員が出ているというようなことがあるとまで昨日面談所に来ておりましたものは申しておりました。
それから暫らく停止して新しい法律で初度目のものを認めるというのは、理論として余り私敬服しないのですが、まあそうやれば気持がはつきりするということを強く御主張になれば、それだけで喧嘩別れで、折角実を結びそうな法律案を潰すこともない、こう思つたのです。極く飾らない話です。
○小滝彬君 若し然りとすれば、すでに長谷長官の所の係官とも話合つておるとすれば、この数字について非常に大きな違いがある、その辺については相当議論はされたのですけれども、結局喧嘩別れになつたということを現わすのですか。
主計局長に随分言つたつもりですが、議員立法であつてさえも予算を明記しておるのに、こういうような重要な内容を持つた法律案で、まだ補正する場合があつても、その補正の場合においてすら予算を確保するということがはつきりされてないということでは、これは私は実際いかんと思うのですが、勿論この委員会でもそれは大蔵省と質疑応答はやりましようけれども、その点はあなたがた委員会にお出かけになる前に、もう少し大蔵省と喧嘩別れ
この問題は最後まで折衝いたしまして、実は悪い言葉でいえば、喧嘩別れ……、結局ドツジ氏が帰るときにメモランダムを送つて来た。こういうふうな状態であります。つまり預金部の金、これだけで金融債二百億を引受けるが、あとは融資する金がないというような場合は、金融債はこちらへ廻すということがあるが、預金部には金はまだある。あるが、それは今の状況からいつて地方債へやつちやいかん。
従つて木村委員とその日に別れるときも、どうもあなた共産党と天秤にかけられるようなことは成るべくしない方がいいと言いましたところが、君達は喧嘩が下手だから、上手に喧嘩をやつて見ろというようなことを言つて喧嘩別れになりました。
私共は理論的には東京教育大学の方がいいと思つているのでありますが、多少教育という言葉にまつわる、又それを以ていろいろ主張をする間に感情的な問題も入つていると見えまして、私共が理論的に申したことは理解をして貰えない節がありますので、名称のことで喧嘩別れをするということは実にこの上ない遺憾なことでありますので、私が実は間へ入りまして、文教大学で折れ合つて貰つたわけであります。
○証人(浦和語助君) 縁切りも何も、私が復員して來るちよつと前にまあ殆んど喧嘩別れになつていて、別けちやつていたらしいのです。別れていたのですから……。