2013-04-03 第183回国会 衆議院 法務委員会 第6号
しかし、さりとて、法でもって一律にできるのかということになりますと、それは、患者さん御本人がどう考えておられるのか、あるいは御家族がどう考えておられるのか、そしてそういった方々が意思を表明できるのかどうかといういろいろな問題があって、法律ですぱっと解決してしまうにはまだ余りにも、これは宗教観、哲学観、死生観、倫理観等々があるので、余りにもまだ問題が十分整理されていないのじゃないかな。
しかし、さりとて、法でもって一律にできるのかということになりますと、それは、患者さん御本人がどう考えておられるのか、あるいは御家族がどう考えておられるのか、そしてそういった方々が意思を表明できるのかどうかといういろいろな問題があって、法律ですぱっと解決してしまうにはまだ余りにも、これは宗教観、哲学観、死生観、倫理観等々があるので、余りにもまだ問題が十分整理されていないのじゃないかな。
当然、理念としては支え合う社会というのは私どもとしてあったんだろうと思いますけれども、ただそれが、やはりお互い価値観、哲学観の違う党派が集まって何とかこの局面を打開しようという協議の中で最終的に帰結した、お互いの、これはそれぞれの譲歩もあったでしょうし、それぞれの判断もあった中で私はぎりぎりの最終判断だったと思っております。
率直に申し上げ、自民党税調の皆様におかれましては、いわゆる諸控除を廃止していくという手前どもの考え方については、哲学観といいますか、家族観といった観点からいろいろな御意見をいただいていることは重々承知してございます。
○赤桐操君 私は、長官の科学技術観といいますか、安全性尊重の哲学観といいますか、安全の哲学と申しますか、これをやはりこの際真剣にひとつ求めたいと思います。 同時にまた、今回の発言によりまして、国民各層各界におきましては相当の不信感あるいはまた不安というものを持っておると思いますので、その解消の方策を具体的に樹立をされる必要があると思うんですね。
だが、その根底をなすものは、政治家がこの問題に対する哲学観を明白にしてやることだと思うのです。 承っておりますと、対話が必要だと申しますが、うそを前提にして対話というものはできないんです。ごまかしを前提にして対話というものはできないんです。不可能なんです。
せんだって竹内委員の質問で、安全の哲学観というものを労働大臣にお尋ねいたしましたけれども、私は大臣のお答えにちょっとばかり疑問があるわけです。というのは、安全に対する哲学というのは、私は、一般的には安全というものは絶対に守らなければいかぬのだし、それは確率が何分の一だとか、そういうことであるものではないだろうと思う。むしろある場合には、過剰とさえ言える安全というものが必要ではないだろうか。
一つの哲学観でもありましょうか、「人生はこの世に生きているだけである。来世とか死後の浄土は考えられないとすれば、長く生きて健康で世の中のために役に立ち、人に迷惑をかけず、趣味を楽しむことが人生の第一である。
私は、日中問題にかかわらず、アメリカに行っていろいろ当路の方と話をされる場合に、やはり西欧陣営といいますか、アメリカの側に立つと考える——いろいろな世界観、哲学観で、アメリカ側の西欧陣営の側に立つのは、これは政府の御自由であるし、それを私はかれこれ言うわけではないが、しかし、問題の性質によっては、もっと自由性を留保するような形でアメリカの方々と話し合いをされた方がいいんじゃないかと思うのです。