2014-04-10 第186回国会 衆議院 農林水産委員会 第8号
きょう、上越市の副市長さんがおられますけれども、大潟にウチダ和漢薬さんという和漢薬のメーカーがございまして、そこと契約をさせてもらって、婦人病の基礎薬になる当帰芍薬散というトウキですとか、いろいろな、新潟でもつくれるような薬草の栽培を実はやってまいりました。
きょう、上越市の副市長さんがおられますけれども、大潟にウチダ和漢薬さんという和漢薬のメーカーがございまして、そこと契約をさせてもらって、婦人病の基礎薬になる当帰芍薬散というトウキですとか、いろいろな、新潟でもつくれるような薬草の栽培を実はやってまいりました。
○国務大臣(下村博文君) 富山大学は、合併したとき、私、視察に行きまして、特に和漢診療関係のコーナーを見学、視察をさせていただきました。 文部科学省が今年度から開始した御指摘のリサーチマインドを持った総合診療医の養成事業において、富山大学から申請された地域包括ケアのためのアカデミックGP養成事業が選定されたわけでございます。
西洋医学だけではなくて東洋医学の観点からも、この和漢薬といったような観点をいろいろバックアップしていただきまして、健康づくりの増進のために寄与するような取り組みを御期待したいと思っているところであります。 今、御答弁の中でもシャクヤクの方に触れていただいたわけでありますが、一方、今度は薬用植物栽培普及の観点から、ちょっと質問をさせていただきたいと思います。
一方、富山県のことばかりちょっと続けたいと思いますが、富山の和漢薬も非常に研究等が盛んであります。富山大学には、国内で唯一の伝統医薬学の研究所であります和漢医薬学総合研究所が設置をされております。また、富山県には、厚生部の中に、くすり政策課という課が設置もされておりますし、県立の薬事研究所も設置をされているわけであります。
和漢薬の発展に向けた取り組みということでございますけれども、和漢薬で用いられるいわゆる生薬というのは、もともと天然物でございます。ということは、土地から栄養分を吸収して、それで薬成分をつくっていく、こういう形になっておりますので、栽培環境とか、あるいはその後の調整法によって大きく有効性が影響を受けるというふうに聞いております。
また、同大学では、地域の特徴を生かした総合的な研究を推進しており、中でも、医薬学研究の分野では、医学と薬学が連携する特徴的なカリキュラムを有し、和漢医薬学総合研究所は我が国唯一の和漢医薬学研究の世界的拠点として知られております。
この君が代、国歌と言われておりますが、そもそも最初に古今和歌集巻七、賀歌の部分に「我が君は千代に八千代に」云々、こう出てまいりまして、その後に、和漢朗詠集の中で「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」。 ここで言う「君」は何ぞやということになりまして、そもそも古典文法で言う格助詞の「が」と「の」の使い分けは当時されていたということをまずお伝えしたいと思います。
例えば富山の配置販売業なんというのは、富山で和漢薬をつくってほかの県外に行って配置してくる、ほかの県外で使われた分を後からお金をもらうというシステムなんですが、富山県だけで許可を取った場合、あと、ほかの県に行ってでもその資格は生きるというふうに考えてもいいんですよね。
二、再編・統合後の富山大学については、医薬理工融合による和漢医薬学を始め統合医療を総合的に教育研究するための我が国の拠点として十分に役割が発揮できるようにするなど、その拡充・発展を図るとともに、高岡短期大学がこれまで果たしてきた地域貢献の伝統を継承し発展させるよう努めるほか、様々な工夫により、キャンパス分散による不利・不便を克服し、再編・統合の実を上げるよう留意すること。
では次に、先ほど西岡委員の方からも出ておりましたことの和漢薬研究所、このことについて少しお尋ねをしたいと思います。 同大学に附属しております和漢薬研究所、大変歴史と、地場のまた特性を生かされての歴史があるようでございますが、これが今後どのように扱われるのか、お尋ねをいたします。 御案内のとおり、東洋医学には傷寒論という古典があります。
○国務大臣(中山成彬君) この富山医科薬科大学の和漢薬研究所は、昭和四十九年に富山大学の附置の研究所として発足したわけでございまして、昭和五十三年には富山医科薬科大学に移管され、これまで和漢薬のみならず世界各地の天然薬物の研究を行いまして、社会的な要請にもこたえてきたところでございます。
また、先ほどから話がありますように、和漢薬研究所、今度、和漢医薬学総合研究所になるわけでございますが、これも先ほどから話がありますように様々なことが期待されますが、特に伝統薬学研究のアジア及び世界の拠点としてその特色を発揮することになるんじゃないかと、更に発展していくんではないかなと、このように考えております。
それからもう一つは、富山医科薬科大学の特徴でした和漢薬研究所、これは統合された後は更に充実されるのかどうか、その位置付けはどうなるのかということをお聞きします。
○政府参考人(石川明君) 二点のお尋ね、新しい富山大学の学長の選考と和漢薬研究所の今後の姿についての御質問でございます。
また、教育研究組織面におきましては、高岡短期大学を母体といたします芸術文化学部を設置することにしておりますし、和漢薬研究所につきましては、和漢医薬学総合研究所に改組を予定しておりまして、教育研究組織のさらなる活性化を図るというようなことを考えているところでございます。 また、こういったメリットを発揮する際の工夫について何かあるかというようなお尋ねもございました。
○村井(宗)委員 今、ちょうど和漢薬研究所の話を答弁の中で出していただきました。 皆さん、富山県と聞いて何を思いつくでしょうか。(発言する者あり)ありがとうございます。薬の富山ということで、富山県は大きく売り出しています。
○石川政府参考人 富山医科薬科大学に附属をしております和漢薬研究所についてのお尋ねでございました。 ただいま村井委員からお話があった経緯等、それから現在の位置づけもそのとおりだということでございまして、私の方からそんなにたくさん多くつけ加えることもないわけでございますけれども。
医師と薬剤師、見てみますと、この少なくとも東洋医学についての造詣、あるいは生薬とか和漢薬とかいったことについての教育というのは、これは相当お医者さんに比べて薬剤師は充実していると。
バイオ、ゲノムの近代医学も重要ですが、日本の伝統的な和漢薬や東洋医学も、何千年もの人間の英知を積み重ねて、有効なものが数多くあります。近代医学と東洋医学の連携、結合を模索することも重要であります。遠山、坂口両大臣の考えをお聞かせください。 医療改革の名の下、明確な理念もなく、平成十四年度の薬価は平均七%引き下げられました。
そのような認識から、国立大学におきましては、例えば、富山医科薬科大学の和漢薬研究所や岐阜大学など複数の大学の医学部におきまして東洋医学に関する教育研究が行われております。
君が代につきましても、その発生は古今和歌集あるいは和漢朗詠集と言われておりまして、一千年の昔から歌い継がれている歌であるということ、そしてまた日の丸につきましては、江戸時代、島津公が船に掲げたのが最初と、いろいろいわれがあるようでございますけれども、言われている。
○江田五月君 君が代が古今和歌集あるいは和漢朗詠集の時代からあった、そして長く続いてきたから国歌としてふさわしいという、そういうお話ですが、古今和歌集や和漢朗詠集の時代からずっと続いてきている歌はほかにもいっぱいあるので、それらが全部国歌にふさわしいなどということはないと思います。
それは、歴史的な面、古今和歌集なり和漢朗詠集なりに出てきたときの君が代の解釈、当時の人々の、当時の文化の中で考えられる君が代の解釈、これは今でも成り立つと思うのですね。
和漢朗詠集あるいは古今和歌集にあった歌なんだ、そしてそのとき君が代であったりあるいは我が君と言われたこともある。「君」とは恋人であったり君のことだよというふうな教え方もすることになっていくわけです。それと国民統合の象徴としての天皇とはどういう関係になるのかということで、子供も戸惑い、先生もこれは戸惑うのではないか。そして、作曲者、林広守という人は何者なのか。
古今和歌集、あるいは和漢朗詠集ですか、つまり記載された君が代、鎌倉・室町時代に神社仏閣の行事うた、あるいは江戸時代の庶民の盆踊りなどにも歌い込まれて各層に親しまれたということ。そして、それが一千年以上にもわたって我々の祖先が受け継いできたこの歌。しかし、明治のときに「君」が明治天皇ということになったわけでございますけれども、これが戦争に利用された経緯。
しかし、逆に記憶をきちんとして、それを国民の前にも提示して、世界の前にも提示して、我が国の歴史はこのとおりでございます、しかし君が代というのは、もともとの歌は古今和歌集や和漢朗詠集にあった本当に平和な歌なんですよ、だから、歴史の思い出は背負いながらも、日本の国は平和国家として頑張るんですよと、こういう意味でやろうという提案をしていると野中さんはおっしゃる。これは一つの見識だと私は思うんです。
もう一つは、私は、先ほど申し上げたように、国語の教員としてこの和漢朗詠集にとられている君が代の歌詞を文学作品として生徒に授業で教える場合に、君が代の「が」を明確に古典文法として教えなければならないんです。
すなわち、古今集及び和漢朗詠集、そういうものに取り上げられているものである、その作者は、詠み人知らずであったと思いますけれども、どういう意図を持っていたかというのはその当時の気持ちになって解釈していけばいいと思います。 ただ、現在、国歌として決まったときの公的な解釈はこうである、これまた教えていただければよろしいと思います。
しかしながら、君が代というものは、私は古い例えば万葉とか古今とか和漢朗詠集とかそういうものを読むのが大好きなものですから、かなり前から君が代なども時々読んでおりまして、そしてやはり君が代の持っている平和な気持ち、これは尊重いたしたいと思っているわけです。
○国務大臣(野中広務君) 私は、君が代の歌詞は平安時代の古今和歌集や和漢朗詠集に起源を持ち、その後、明治時代に至るまで祝い歌として長い間民衆の中に幅広い支持を受けてきた、そういう歴史的経過を承知いたしております。この場合、君が代の「君」とは相手を指すことが一般的で、必ずしも天皇を指すとは限らなかったと思うわけでございます。
君が代の「君」に関することにつきましては、君が代の歌詞そのものが、平安時代の古今和歌集や和漢朗詠集に起源を持ち、その後、明治時代に至るまでの祝い歌として長い間民衆の幅広い支持を受けたもので、この場合の君が代の「君」とは、相手を指すことが一般的で、必ずしも天皇を指していると限らなかったと考えられます。
君が代は、古今和歌集や和漢朗詠集にもその源泉を見ることができますし、静御前も義経への愛を込めて源頼朝の前でこの曲で舞ったと言われております。また、江戸時代には、江戸城で元旦にこの曲をめでて平安と繁栄を願ったということでございます。また、物を請うときにこの君が代のメロディーを流してこの歌を歌ったということです。
あとは、和漢朗詠集の詩句などはここに引いておきました。 そして、この(六)の後ろから二行目、長生殿の不老門の前には日月のめぐりが遅い。「日月遅」とありますのは、一日一日、月々がゆっくり行くということは、結果的には老いないということですね。不老長寿のことを言っているのです。その問題。 それから、三に移ります。「天皇は象徴」ということであります。 (一)についてはもう何も言うことはございません。