1959-08-11 第32回国会 衆議院 農林水産委員会 第7号
同時に、監督者といたしまして、国土開発株式会社及び中国化薬株式会社よりそれぞれ社員が乗船をして、四月一日に姫路港に向つたのでございます。
同時に、監督者といたしまして、国土開発株式会社及び中国化薬株式会社よりそれぞれ社員が乗船をして、四月一日に姫路港に向つたのでございます。
そのときは、先ほど申しました松本巡査が署まで案内するということで、松本巡査はそのときは自転車で来ておりました関係上、自転車を自分が押しながら、谷川氏と同道して署の方に向つたのでございます。
それからその次の、船の上で京浜港運の労務者のうち、中に入りました者が、午前八時、三十五トン機帆船第七十三昭和丸に乗船いたしまして、LSTビーチ埠頭からノース・ピアに向つたのであります。その海上で赤いはち巻をした労働組合員十数名を乗せました三隻のモーター・ボートが、先ほどのその機帆船に近づいております。そのうちに接舷をしてその船に飛び乗ったという人もあるそうであります。
それを、今の所得税の課税と多少違うので、さらにまた軽減をするということですが、どうも同じような交通運輸関係でこの変更をする理由は、私どもは理解に苦しむわけなんですが、政府はどういう考え方でこの外航船舶の方だけを——大体ことしはどこも自己財源を確保するという美名のもとに、とにかく新しい税制なんかを作って、そうして増収になっているわけでありますが、その中でこれだけ特にどうして減免の方に向つたのか、どうも
当時菊水隊というのは人数は六、七百名だつたと思いますが、それが手向つたのであります。手向いましたが、御承知のように武器も何もありませんから、ほとんど肉弾的な形でやつた。一般の私どもはどうしておつたかと申しますと、なるべくそれに参加しないで難を避けようというような形でありましたが、戦闘が終つたときに私たちは一同捕虜というような形になつた。
二十八日現地に参りました我々は先ず県庁で一般的な説明を聞いた後悔岸沿いに浜松に向つたのでありまして、途中大井川右岸の志太郡吉田町、掛川南方の小笠郡大坂村、天龍川左岸の磐田郡井通村で名郡の実情を聞いたのであります。
一行は一日東京発、一路函館に向つたのでありますが、途中連絡船第十二青函丸について航送船の構造及び設備等に関し実地調査を行つた上、二日午後函館に到着、直ちに七重浜、国鉄職員集会所、慰霊堂に遭難死没者の霊を弔い、渡辺病院に生存者を慰問した後、菊川、富吉両代議士御遺族に弔意を表しました。
それから次の台風の速度の件でございますが、この台風は広島県から岡山県の境を通つて、日本海へ抜けまして北海道の方へ向つたのでありますが、そのときには一時間百十キロの速度で進んでおりました。北海道の方へ参りましてから、台風の位置をきめるのは、これは主として北海道の気象観測結果によるわけでありますが、北海道には現在二十二の気象官署がございます。
ただいま申しましたおくじり、りしりがすでに二十六日の午後出動しておりましたのは、実は青森の保安部のうらなみが、その前に第三明神丸が下比半島の焼山沖で漂流中でSOSが出て参りましたので、まだ台風の前駆時代でありましたが、すでに午後青森を出て、それの救援に向つたのであります。
以上をもつて岡山県下の農業水利、災害復旧関係の視察日程を終了し、翌八日伯備線により鳥取県に向つたのであります。午後米子市に到着後、市役所において米子地方農業の特質ないしはその欠陥について説明を受け、あわせて対策を要望せられたのであります。
○三浦辰雄君 今草葉大臣からの御意見で、私はそうであればそうであるだけに、このような方向ずけの法律とはいいながら、その方向が果して今日国民が要望し、期待しているところの簡素化というものに向つたのか、向つていないのかという検討の必要資料として、本当にくどいようなんですけれども政令の問題、主管大臣の問題なんです。これが出て来るはずなんです。
の最高裁判所の長官、これが当時アメリカの国情として各ステートが強い権力を持つように行くか、あるいはまたユナイテツド・ステートすなわち合衆国連邦というものが強い力を持つか、これは政治上その当時非常に争われて来た問題でありまするが、このジヨン・マーシヤルは最高裁判所の判決を通してアメリカの連邦の統一ということに主力を注いで行つたのでありまして、それが最高裁判所によつて判決の集積によつてそういう方向に向つたのでありますから
今列席しておる郵政省当事者にこれは質したいと思うのですが、今この弁明を向つたのでありますが、誠に申訳ない、相済まん、こういうことですが、これら今指摘されました事件に対しまする責任の所在、その関係当事者に対しては、どういう処置をせられたか。いずれにしても会計検査院は厳然とした批難事項乃至不当事項としてこれを取上げてあるわけです。
それからそのほかに二人、これは丁度私たちが集結する直前にどこかへ移動されたかたなのでありますたが、恐らくカラカンダのどつかのラーゲルに向つたのだろうというロシア人の噂でした。こういうかたが二人、これが現在特別ラーゲルに収容されている私の知つている人たちです。
折返しその同意を得ましたので、私ほか二名の代表と随員二名と共に十月二十四日東京を出発、モスクワに向つたのでございました。予定通り十月二十八日にモスクワに到着いたしまして、三十一日からソ連赤十字との会談を始めましたが、十一月二十八日までに五回の正式会談と、数次の非公式会談を行いました。
昭和二十一年三月に私は捕えられまして、四月三十日に樺太の真岡港から日本人百二十名余りとともに船に乗せられてウラジオストツクに向つたのであります。その間真岡の刑務所の支所でしばらく待機しておりまして、五月一日のメーデーが済んでからということになりまして、五月五日に乗船して、ウラジオに着きましたのは五月八日でございました。ただちにウラジオストツクの監獄に全部収容されました。
先般いろいろお話がございましたが、先ず抑留された船員に対しまして差入れをする必要があるということで、第二十二播州丸という船を仕立てまして、抑留されておりますかたがたに対する差入品を積込みまして、実は向うに向つたのでありますが、それと殆んど入れ替えのような形で帰還が実は始まつたような形でございます。
翌十六日伊賀上野に向つたのでありますが、上野市は、八月十五日と九月二十五日の二回に亘つて被害を受けております。九月の場合は水深が八月の三倍くらいになつたというような状態でありまして、上野市小田の決壊箇所を視察しましたが、前回の応急工事の場所が再び決壊しておりまして、早急に根本的な改修工事を行う必要性を痛感したのであります。次いで島ケ原村というところの災害地を調査したのであります。
それであす横浜に行つて変装用の服を買つて与えるという約束で、次の日日本人の森田というのとぼくと福本と三人で、横浜というその方角へ向つたのです。しかし実際には駿ヶ台の下の方の神田の洋服屋でぼくの着物を買つたのです。そのときのぽくの服装というのは、日大の制服に日大の帽章をつけた丸帽です。それでそのかつこうでキヤノンの部屋に通されたのです。
従いまして、国会議員各位の思想統一をいたしまして私は地元へ向つたのでありますが、地元では意外にも停車場においてたくさんなデモ隊が控えておられたので、私は石川県の県会議長の太田君に対しまして、どういうわけで反対をいたすのかということの理由を聞いたのでありますが、第一番には風紀問題であります。
昔、日本が対外侵略に向つたのは、結局、私的独占或いは封建的経済の結果として、日本の経済の弾力性がなくなつた、そうして対外侵略に行かざるを得ない方向に向いたと思うのです。これは対外侵略のやがては温床を形成するに至ると思う。私的独占というものを強化しますと財閥というものが又出て来るのでありまして、そういう意味において私はこれは非常に重大だと思う。