2012-08-01 第180回国会 参議院 決算委員会 第5号
先生、常用漢字の御指摘をいただきましたけれども、小学校から高校までの学校教育、国語科の中で学ぶべき漢字として常用漢字、それからあと古典の領域においては古語として旧体の漢字ですとか古い日本語というか古語を学ぶという形にはなってございまして、それらを通じてできるだけ教養の基盤を広げる、そういう取組は学校教育の中で取り組んでいるところでございます。
先生、常用漢字の御指摘をいただきましたけれども、小学校から高校までの学校教育、国語科の中で学ぶべき漢字として常用漢字、それからあと古典の領域においては古語として旧体の漢字ですとか古い日本語というか古語を学ぶという形にはなってございまして、それらを通じてできるだけ教養の基盤を広げる、そういう取組は学校教育の中で取り組んでいるところでございます。
それは何かというと、世界の中で少数の人たちが話している言語について、例えば蒙古語、モンゴル語とか、司馬遼太郎さんはここの卒業生ですよね、そういう語学の分野を網羅した学校なんですよ。これは、大阪大学と御一緒になられた後、大阪大学もそれを十分使いながら、国際化、アジアの中の日本というものが今言われている中で、あるいは開発途上国との関係等で、やはり特色のある大学に育ってもらいたい。
○和田ひろ子君 先生の今のお話に直接つながるかどうかは分かんないんですけど、お年寄りというか、退職の皆さんを是非地域に、地域で活用というと失礼だよね、地域が本当にお年寄りの皆さんというか退職者の皆さんを是非呼んでいただいて、結構高校の先生なんか、例えば古語を読む会とか、ああいうものをすごくもっと活用していただきたいなと私いつも思うんですが。
これは総理に紹介したいと思うんですけれども、統治することを古語で「しる」と言うんですね。明智光秀の最後の連歌の句で「ときは今あめが下しる五月かな」という、あの「しる」です。天下統一の統、統治の統、「統る」。日本は古語で、治める、統治することを「統る」と言ってきたわけですけれども、古事記では、その「しる」というのを知識の知という漢字を当てているんですね。
私も今、国会に来て、非常に意味のある言葉が多いなということを改めて認識させていただいたようなわけでございますが、特に、かばんに入るような大きさの、三省堂ですか、国語辞典、古語辞典に入っていることがすべて使いこなせるようになったら、相当な達人と言えるのではないかというふうに思っております。とても私は無理でございますが。そうしますと、すぐれた感受性と識見を得ることは間違いがないと思います。
ここでも言ったことがあるかどうか、あこがれというのは、あれの古語は「あくがれ」というんですよ。「あく」というのはここなんですよ。「がれ」は離れるという古語。自分のあこがれを果たすためには、今いるところから離れなかったら実現しないんです、自分の手に取れない。政治も同じことなんです。自由民主党がいつまでも政権にいるから日本の国が衰退をしてくる、政権交代がなかったらこの国はよみがえらない。
つまり、国語辞典や古語辞典というものが根本的なところで少し違っているという指摘でございまして、私も専門家ではありませんので細かいことは分かりませんけれども、幾つかの指摘があるところを見てみると、なるほどというふうな思いが実はいたしました。
ただ、古語大辞典と広辞苑に「転じて、国。国家。」という例示が二つありますけれども、いずれも君が代の「代」ではありません。世の中の「世」を使っております。しかも、その言葉遣いは千年も前の王朝文学の中から例示を挙げているわけです。
読んでいただければおわかりいただけるので、時間の関係上省略してまいりますが、(一)に新潮社の古語・現代語国語辞典を用いたのは、このような学問的なというよりも、学問の結果としての一般的な事象を挙げましたのは、現代の日本人の普遍的な考えを代表していると認識したからであります。 二番目に、日の丸は、日の紋は太陽をかたどったこと。
衣食足りて礼節を知るという中国の古語がありますが、公務員の倫理を徹底するとともに、国家公務員に払うべきものは支払う義務も徹底していただきたいと思います。 しかし、中途半端にやるとまた別の問題が発生してきます。余り厳しくすると家へ持って帰って仕事をするなどといういろんな問題が出てきますから、それは総合的によく判断し、十分注意して実行していただきたいと思いますが、いかがでしょうか。
ある意味ではあつものに懲りてなますを吹くという古語がございますけれども、そのために消費税を御提案をいたしましたときには必要最小限に非課税の範囲をとどめましたことが、今度は次の御批判を呼んだわけであります。
それから、古事類苑でもその点は全く同じことで、この祭りは、「大嘗は、古語にオオニへと言い……。この祭りは天皇即位の後、始めて新穀を以て天照大神及び天神地祇を奉祭し給う一世一度の新嘗なれば、これを大新嘗とも言い、また即位後必ず行い給うを以て、践祚大嘗祭とも言う。」だから、新嘗祭と一緒なんですよ。やる時期、それからその意味づけが違うというだけで、祭祀である、そして神事である、これは共通なんです。
それから司馬さんのお話ですけれども、これは先ほど引用いたしましたアンドレ・ジッドの言葉とちょうど対応するんですけれども、司馬さんは外語の御出身で蒙古語が御専門だったですね。ですから、蒙古語と聞いただけで、その言葉を通じてまだ相まみえることはなくても、大陸の方々に対する親近感というのは言語教育の中で培われたんじゃなかろうか。
古語に「人皆忍びざるの心あり」とありますが、これぞまさに、見るに忍び得ざるのはなはだしきものと言っても過言ではありません。徳に従えば栄え、徳に逆らえば滅ぶとの戒めもあり、いまや内外ともに多事多端のとき、われら国会は、何事にも先んじて国民の政治不信を取り除かねばなりません。 あなたは、一国の総理、一党の総裁として、この役割りの中心に立たれております。
おこがましいようになりますけれども、シナの古語に、三年蓄えなければ滅ぶという、これは当然凶作と防衛というものを意味しております。いま古米が余ってどうのこうのと騒がれておりますけれども、少なくとも食糧の安全保障というものを中心にするならば、一年間くらい、そうすると一千一百万トン前後、半年にいたしましても六百万トン弱、一遍に古米は備蓄に変わってしまうわけでございます。
古語に「始めあらざるなし、よく終りある鮮し」といいます。死に至るまでみずからの思想と信念に忠実に生き抜かれ、よくその終わりを全うされた君の人生は美しいものであり、みごとな傑作であったと思います。(拍手) 成田君、君と私は、郷里を同じゅうし、郷里讃岐に共通の愛情と共通のかかわりを持ち続けてきました。君は、郷里の仕事であれば、その大小にかかわらず、自分の立場を離れて、私に依頼してくれました。
司馬遼太郎というのはあれは大阪外語の蒙古語の出身で、それから陳舜臣というのもこれはインド語ですね。インド語や蒙古語というのは一番やさしい、だれでも入れた。それから市村真一というのは私どもの京都大学の同僚におります。これは経済学者ですが、これはマレー語ですね。当時はマレー語と私の入りましたロシア語が一番人気があったんです。
ところが和語に関しましては、方言あるいは現在使われている和語あるいは古語、こういったものを網羅しての和語の集大成というものはいまだないようであります。ぜひともこうしたものを網羅した辞典を日本の国につくっておかなければいけないのではないかと申し上げるわけです。
これはゆゆしい問題でありまして、和語というのは先ほども言いましたけれども古語も含む、万葉時代も含む、それからいまある方言も含む、そうした広い材料の上でもって議論がなされなければいけないのではないだろうか。日本の国に漢和辞典というのは何種類もある。
大変御無礼なことを申し上げますけれども、宮澤先生には多年、参議院時代から御懇意にしていただいておるから、「おぼしきこと言わぬは腹ふくるるわざ」と古語にもありますように、お心安いままに申し上げておるのであって、私の真意を取っていただきたい。決してあなたを誹謗しておるわけでも何でもない。国民が双手を挙げて、万雷の拍手を受けてあなたが外務大臣になられたから、期待が大きいだけにこれは皆失望しますよ。