2001-06-14 第151回国会 衆議院 本会議 第39号
(拍手) 日本共産党は、受験中心の教育から子供を解放し、基礎的な学力の保障など、すべての子供たちの成長、発達を中心に置いた学校教育とするために全力を尽くします。この方向こそが、日本の未来を真剣に考えている道だと確信するものです。 以上を表明して、反対討論を終わります。(拍手)
(拍手) 日本共産党は、受験中心の教育から子供を解放し、基礎的な学力の保障など、すべての子供たちの成長、発達を中心に置いた学校教育とするために全力を尽くします。この方向こそが、日本の未来を真剣に考えている道だと確信するものです。 以上を表明して、反対討論を終わります。(拍手)
あと、ちょっと時間がありませんから聞きますけれども、教育環境、社会条件が整備されない現状のままで学歴社会解消がされていない中、受験中心の現状の中では、競争激化を招くことは必至であろうと私は思っています。
受験中心の管理・競争教育から子供たちを解放し、しっかりした基礎学力と市民道徳を身につけさせるための教育改革が必要であります。 さらに、政治、経済、社会のあらゆる分野に潜む不正、腐敗をなくし、我が国自身の道義ある社会の確立を目指さねばなりません。まさにそこに政治と社会の責任があります。
今見直すべきは、国連子どもの権利委員会が異例の警告を発しているように、この教育基本法に反して受験中心の競争教育を推し進める一方、三十人学級を初めとする教育条件の整備を怠ってきた政府・文部省の教育行政ではありませんか。(拍手) 教育基本法は、子どもの権利条約と並んで二十一世紀に継承すべき大事な宝です。
要するに、受験中心の教育が少年を物すごい重圧のもとにほうり込み、そして分断し、精神的な圧迫が、それが学校崩壊だけじゃなくていじめにつながり、そのいじめの延長線上に凶悪な犯罪が生まれてきておるという点、学校教育の抜本的改革。二つ目には、社会のあらゆる分野での道義の確立。これは、やっていいことと絶対にやってはならないことをきちっとけじめをつける。
現在の学校教育は、受験中心の詰め込み教育、競争教育が基本になっていて、それが高校、中学から小学校に至るまで支配的な流れになっています。そして、この受験中心の教育が学校を荒廃させ、子供の世界を荒廃させ、いじめ問題を深刻な社会問題にしているのです。五千万円恐喝事件などは、まさにいじめを発端として拡大していった事件でした。
日本共産党は、一つ、学校教育を受験中心の詰め込みや競争教育の重荷から解放し、子供の成長と発達を中心に置き、学校を物事がわかる楽しい場にしていくこと。二つ、子供の健全な発展を図る上からも、汚職や腐敗を一掃し、道義ある社会を目指すこと。
このように、現在の受験競争のもとでは、受験中心のカリキュラムをとる学校とか受験対策の特別コースを設ける学校が出てきて、中学校同士が競争に巻き込まれて学校間の格差を生み出すということが懸念されていることがあるわけで、生徒を今以上に分断して、できる子できない子ということで差別、選別する危惧も指摘されているわけです。
○説明員(福島忠彦君) いじめの問題、まさに先生がおっしゃったように、いろんな原因があると思いますが、家庭の教育力が低下してきているとか、社会が非常に都市化現象になっているとか、それから学校も非常に受験中心の教育をやっているとか、いろんなひずみがこのいじめの原因になっているのじゃないかと思っております。
そしてまた、環境教育の学校教育における位置づけというものをお答えいただくと同時に、今の教育というものが受験中心、そうした中で道徳教育にも通ずる奥深いものがあるこの環境教育の教員の教育やプログラムの開発、そして現場での環境教育の普及徹底に思い切った予算や体制を組むべきだと思っておりますけれども、その辺についてお聞かせ願いたいと思います。
その背景としては、受験中心の生活や学歴偏重の風潮が原因とされています。また、リクルート疑惑の政治腐敗に象徴される金銭万能の風潮も子供たちの心に悪影響を与えていることも十分考えられます。政治不信は子供の世界にも決して無関係ではありません。 先日、山梨県の小学校で非常に残念なことが起こりました。 子供たちが卒業の記念にプールの外壁にかいていた絵が教育委員会の指示で消されたことであります。
受験中心の生活になりますと、今おっしゃるようにスポーツをするとか、自然体験をするとか、友情を深めるとか、文化に親しむとか、そういったさまざまな人間としてそれぞれの発達段階に必要な生活体験もできなくなる。そういうような状況は文部省としては好ましいと思っておりませんから、何とかしてこの加熱している地獄というような言葉を使われる状態だけはなくしたい、こう思っているのです。
画一的であり、学習専門で受験中心の教育を改め、伸びやかな個性を尊重し、独立や自由を重んずる教育に転換しなければなりません。近年、学園の荒廃が指摘され、学校教育制度の見直しが叫ばれておりますが、教育は現在の社会が次の世代に負う責務として社会全体の課題なのであります。
すべてじゃないでありましょうけれども、非常に大きなウエートが今日の受験中心の学校教育、受験地獄にあると総理大臣はお考えであって、そこから発想されたのだと思うのでありますけれども、その点については文部大臣同感ですか。イエスかノーかだけでいいです。
そういうところから学校教育が、いわゆる知・徳・体、体力や倫理観、そういうものよりも能力としての知育としての数学とか英語とか国語だけに重点を置いた受験中心の教育、そして点数によって、つまり能力によって選別していく。そして選別されたすぐれた者は大学に行くという今日の受験教育、受験競争。
いま大臣も御同感とおっしゃいましたけれども、この学歴社会、そのことは入試があるから、そのために受験中心の教育になっていくところからいろいろな問題が起こると申しました。それの 一服の良薬というのはないのです、ないだろうと思う。けれども、少なくとも当面、たとえばこんなことはどうですかと思うのであります。
入試競争によってそれを突破しなければ一流校に行けないわけでありますから、したがって高校以下の学校は受験中心の教育になりがちであります。受験教育中心になりますから、したがって高校は大学の予備校に、中学校は高校の予備校化のようになっていきます。
受験中心なものですから急がなければなりません。じっくりとわかるまで教えて――ついていけない子は残してもいかなければならない。だから、落ちこぼれか落ちこぼしかという言葉も出てくるのでありますけれども、そういう子供は先生に相手にされない。ですから、勢いそのうっぷんがときに積極的な子は校内暴力になるし、内気な子は登校を拒否したりあるいは家庭内暴力になる。
そういうことがあるために、高等学校は大学の予備校になり、中学校は高校の予備校になり、受験中心主義でテスト、テストを繰り返し、テストで点数をつけ、点数で順番をつけ、順番でもって、輪切りでもって選別ということになる。その議論をしていきますと、学歴社会から幼稚園に至るまでメスを入れなければならない。確かに森さんの問題意識には私も同感であります。
そのことと同じことを大臣にお聞きするつもりはないから申し上げておくのでありますが、しかしそういう入試中心、受験中心の教育というものは、雪が解けたら水になるは理の世界、雪が解けたら春になるは情の世界、その理の世界が百点で情の世界が零点であるとするならば、ノーベル賞をもらった湯川秀樹は百点で川端康成は零点ということになってくる。
最初から繰り返しますけれども、今日の教育の荒廃というのは学歴社会にあるのだ、学歴社会の一つの大きな弊害は入試という壁があり、そしてそのために小中高が予備校化し、受験中心の教育になっておるところに今日の荒廃があるのだから、そのことをどう打開するかということをかかる角度からメスを入れなければだめじゃないか、そのためにということですから、さっきから興味があるとか好ましいことだと思いますというようなことでは
入学試験が難問、奇問を出すものですから、ことさらに受験中心の勉強に追いやられてしまうという傾向も多分にあるのじゃないだろうかというようなこともいわれてもおりますし、私は、それも重要な問題だなと考えておるところであります。