2021-03-30 第204回国会 参議院 厚生労働委員会 第5号
今日ちょっと時間がなくなったので余りあれですが、生き残った県民は、終戦後いち早く、悲惨極まる激戦地となった糸満市や八重瀬町など南部地域から戦没者の収骨を進め、魂魄之塔を始め慰霊塔を次々建立し、戦没者の霊を弔ってきた。しかし、いまだ完全に収骨は終わっておらず、最近も十骨出ております。戦後七十六年が経過した今でも戦没者の収骨が行われている。
今日ちょっと時間がなくなったので余りあれですが、生き残った県民は、終戦後いち早く、悲惨極まる激戦地となった糸満市や八重瀬町など南部地域から戦没者の収骨を進め、魂魄之塔を始め慰霊塔を次々建立し、戦没者の霊を弔ってきた。しかし、いまだ完全に収骨は終わっておらず、最近も十骨出ております。戦後七十六年が経過した今でも戦没者の収骨が行われている。
沖縄戦で亡くなった方は、十八万八千とかいろいろな数字があるかもしれませんが、これまでに、平成二十六年までに収骨されただけでも十八万四千、十八万五千という数字の収骨数があって、単年度でも、今数字をいただきましたように、二百とか三百とか、毎年新しく収骨をされているわけですけれども、そのうちわずか四件しかDNA鑑定がなされていない。
一万人以上もまだ収骨がされていない。これが国家の姿かと。兵隊に送り込むときはああいう形で送っておいて、そして死んでしまったら六十七年も八年もたっても遺骨を完全に収骨できないということは、これは政治の怠慢であると。
私も、読谷の村長時代も何度も遺骨収集の現場に出かけていって収骨のために動いてきた経験もありまして、それからもう六十七年も迎えますから。 所管は、これは厚労省の方にあることもよく承知をしておりますが、やはり是非、内閣府の沖縄担当と厚労省相提携しながら、そして現場を知っていた、あるいはその当時の人々も高齢化しておりまして、毎年そういう関係者が減っていくこともございます。
プロミスキーパーズやガマフヤーであれば、手作業による丁寧かつ迅速な収骨作業が可能であります。また、そのことは、沖縄における失業対策やホームレスの就労支援にも大いに役立つと思いますが、細川大臣の決意をお聞かせください。
アイテムポケットの一部はキャンプ・キンザー区域内にかかりますが、米軍基地の中であっても、きちんと収骨されるべきであります。 厚労省は、埋没遺骨の調査、収骨作業のため、関係省庁と連携して、米軍に基地内立ち入りと作業実施許可を求めていく考えがおありでしょうか。
さて、硫黄島の決戦でお亡くなりになった戦没者が何名で、これまで収骨された御遺骨は何柱で、まだ未収骨の遺骨はどうなっているのでしょうか。
遺骨収集によります収骨数でございます。二十年度はまだ確定しておりませんけれども、三月三十日現在で二千三十七柱の御遺骨を送還しておりまして、これは十九年度が七百六十柱でございましたので大幅に実績が上がっているという状況でございます。 このうちNPOからの情報に基づく収骨の実績でございます。
そして、この収骨につきましては、国の責務でございますから、可能な限り早期に収集できるように努めてまいっておるところでございますが、お話しいただきましたように、今日に至りましてもまだまだ数多くの御遺骨がいろいろな地域に残されておる現状にございます。
もうその散乱している御遺骨をまず、本当に表現悪いですが、かき集めるようにして収骨したのが最初の遺骨収集のころであります。そのころ、もうとても、同じ部隊で戦われた皆さんでありますから、この方が日本人であるとか台湾の方であるか、もう区別のしようもございません。
そして、その結果、収骨数は一万一千六百八十柱でございました。 しかし、委員御指摘のとおり、三十二年から四十二年までの十年間にわたりましては遺骨の収集が集中的に行われませんでした。当時といたしましては、一応一次でやったということの中で、交通が不便であるとか、あるいはまた相手国への入域の制限等が大変厳しいとかいうような状況があったという具合にお聞きをいたしております。
要は、戦友会や遺族会の皆さんが高齢化をしていく中で、より現地で収骨を一生懸命結果を残していきたいという中で考えると、この実動部隊たるJYMAの若者の数というのが非常に少ないのかなという気がしております。昨年一年間を通しても、JYMAが出した人数というのは十九名です、一年間通して各地に行ったのが十九名ですね。
そこから、硫黄島からはがきが来まして、今回は二十柱の御遺骨を収骨することができたというような、その結果の報告が来ております。
決して言いわけするわけではないのですが、一回に何百柱かの御遺骨を収骨して、一遍焼かないと日本に持って帰れない。ではどうやって焼くかというと、ああいう焼き方しかなかったわけであります。もう泣きながらああやって焼いてきましたが、どうぞ、それはやむを得なかったということだけは改めて御理解をいただいておきたいと思います。
また、収骨数についても御報告いただきたいと存じます。さらに、各戦域における戦没者数と御遺骨の収集数、海没遺骨も含めて教えていただきたいと思いますが、資料も提供いただきましたので、含めて御説明、御報告いただきたいと思います。
収骨した遺骨数につきましても、当初、私どもは、御遺骨の柱数をどういうふうに数えていたかといいますと、大腿骨二本をもって一柱と数えておりました。それで丹念に丹念に数えておりました。 しかし、散乱遺骨と私どもは呼んでおりましたけれども、南方の方での戦闘の途中で亡くなった方々の御遺骨というのは、埋葬されておるわけじゃありませんから、そういうふうに散乱しておるわけであります。
本年三月にも私はお尋ねいたしましたが、実は、去年四百十柱、ことし千十三柱が千鳥ケ淵に納骨されましたが、これらは海外で収骨してきたものを集めて一緒に焼くという方式がいまだ継承されております。私は三月段階で大臣から、個別性の識別できるものはなるべく個別で、歯の一つですら、先ほどのイラクのお母さんにとっては我が息子なんだと思うんです、個人なんだと思うんです。それが千十三柱一緒に業火の中で焼かれる。
このような状況でございますので、旧ソ連、モンゴル地域につきましては、これまで九千三百七十六柱を収骨いたしまして、そのうち二百八十六柱の遺骨の身元が判明し御遺族にお返ししております。その割合は三%になっております。南方につきましては、先ほどのような事情で毎年数例にとどまっているのが現状でございます。
戦後五十二年、沖縄戦における犠牲者の遺骨すら完全に収骨されていないのであります。 橋本総理は沖縄戦の実相についてどのような御認識をお持ちか、お伺いをいたします。
その後、海軍ごうその他新たなごうが発見され、さらに収骨作業が進み、今日いつの間にか摩文仁一円も木々が生い茂っております。 その後、たしか金城さんは沖縄県遺族会の会長になられたと覚えておりますが、常に沖縄戦で亡くなられた県民はもちろん、両軍兵士まで含めて慰霊に心を砕かれ続けた方であったと思っております。
そして、グアムの戦域において収骨されました遺骨の代表的なもの、そして遺品が葬られておりました鉄の扉をあけてそれを持ち帰ったのも日本人でありました。そして、グアム政庁、当時はグアムは政庁でありましたけれども、その維持管理の責任は負えないということを日本政府に通告してきた事件があったことを御記憶でありましょう。
○尾辻秀久君 今、俗に言いますシベリアの御遺骨の収骨について、六百四十柱余り収骨していただいたというお話がございましたが、その中でもしおわかりならば、お手元に資料があるならば、氏名が判明した御遺骨の数をお教えいただけますか。
○尾辻秀久君 遺骨収集に関して言いますと、お亡くなりになった方の数が二百四十万柱、そのうち既に収骨されたものというのはせいぜい半分ぐらい、百二十万柱ぐらいだと思います。 海没遺骨に対しては今のお答えのとおりでございまして、まだまだ御遺骨、いろんなところで日本に帰る日を待っておられるわけでございますから、重ねてお願いだけをさせておいていただきたいと思います。
同時に、インドネシアなど、相手国の事情があって収骨不可能な地域もございますので、ぜひその辺の御努力もいただきたいと思っております。