1950-04-29 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第22号
それから残つたところのその外の幹部の方々は、当時の山田、佐々木イズム打倒の反動闘争の下に、この山田、佐々木イズムの作業所であるところの当時のアクチーブ……当時はアクチーブとはいいません、指導者は呼んでおりました。その指導者そのものを懲罰する懲罰隊を編制して三十キロの地点の伐採作業に従事させました。約四十名の人員であります。将校、下士官、兵隊と、いろいろの人がおりました。
それから残つたところのその外の幹部の方々は、当時の山田、佐々木イズム打倒の反動闘争の下に、この山田、佐々木イズムの作業所であるところの当時のアクチーブ……当時はアクチーブとはいいません、指導者は呼んでおりました。その指導者そのものを懲罰する懲罰隊を編制して三十キロの地点の伐採作業に従事させました。約四十名の人員であります。将校、下士官、兵隊と、いろいろの人がおりました。
それから直接帰国問題に関する反動闘争、そういうものは大体その後と記憶しております。
それはしかし、現実に反動闘争という民主運動の基底は、憎しみとうものがなくては民主主義ではない、反動を倒さずして民主主義はないというスローガンですから、何か反動闘争をやつておらぬと、自分自身が反動でつるし上げられます。だから反動運動の闘争をやらないといけないことになります。
いわゆる民主運動の発展過程における——反動闘争と唱えられておつた、そういう収容所の民主運動の過程が違うことにおいて、反動に対する扱いは全部違つております。民主運動の流れの中における反動闘争というのは、大体の流れは同じであります。
それがために各收容所では、各作業組において常に反動闘争として、第一線にお、てアジのうまいやつ、やじのうまいやつ、それから作業意欲の強いからだのいいやつ、そういう者を労働の英雄として、絵かきが似顔を書いて次から次へ出して行くのであります。 その労働の犠牲者としては、その当時優秀者はみな收容所でパンを買います。そのためにバランスがとれます。そうでない者はやせるだけです。
○吉田証人 いわゆる日本新聞を通じての反動闘争、あるいはアンチ・ファシスト委員会の帰国反対運動については、彼らは常に、われわれの民主運動は日本共産党と直結しているのだということを言つておるのであります。