1950-04-10 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第23号
とてもこれじややつて行けぬから、一つやろうじやないかというので、私たち志を同じゆうする者が寄つて、いろいろとこうした反動将校の横暴に対して闘う。そうした問題をしばしば検討したことがあるわけです。彼は非常に弱かつたもんですから、たしか十月の中ごろだつたと思いますが、彼は医務室に入室いたしまして、かぜで約一週間か十日前後入室したように記憶しております。
とてもこれじややつて行けぬから、一つやろうじやないかというので、私たち志を同じゆうする者が寄つて、いろいろとこうした反動将校の横暴に対して闘う。そうした問題をしばしば検討したことがあるわけです。彼は非常に弱かつたもんですから、たしか十月の中ごろだつたと思いますが、彼は医務室に入室いたしまして、かぜで約一週間か十日前後入室したように記憶しております。
そしていよいよ十月も来、冬も来たら、三月に帰るのだ、五月に帰るのだ、六月に帰るのだというようにして、だんだん帰国問題にからんで、反動将校がごまかしていたわけですが、その間どういうぐあいになつてあれが行われたかどうかということは、私は知りません。
ソビエトから配給された食糧なんかは、敗戰後ソビエト自体も相当困難しておつたにもかかわらずわれわれに配給されたやつが、反動将校によつてごまかされて行くということで、若干の死亡者があつたことは事実です。それから分所においての死亡というのは、ほとんど分所では今申し上げたように、急病以外は死ぬことはない。
この反動を返すなという問題につきましては、実は四六年から四七年にかけて、反動将校団がどんどん帰つて行つたために、働いている兵士や大衆の中からなぜ反動を先に返すのだ、われわれを先に返してくれというふうな要求がありました。自然発生的に大衆の中にそういう声がありました。しかしながらソ同盟当局の方は全然そういう考えは持つておりません。いわゆる反動とか民主主義者とかいう区別はソ同盟当局はいたしておりません。
私は軍人生活が長かつた関係上、急に考え方の切りかえができなかつたので、反動将校として隔離を命ぜられ、約三箇月間は、他の部下と、あるいは他の同胞と談話の自由を許されなかつたというような過去もあつたように思います。
もう一つは先ほどの御陳述の中に、自分は反動将校として、実に三箇月の間、他人との談話を禁ぜられたという御言葉があつたのでありますが、いかなる方法によつて談話を禁ぜられるという処置がとられたかという点について伺いたいと存じます。
なおベガワトの第一ラーゲルにおりますときに、一九四七年二月六日から五月のたしか中旬ごろだつたと思いますが、その間反動将校としての隔離を命ぜられまして、私以下約十四、五名の者が隔離をされました。
こういう人達が結局自分達に対して反動将校が来たとこういうわけで、そこで大きな、大したものではありませんけれども、そこにおいて鬪争が始まつたわけであります。それでここの生活におきましていわゆる吊上げです。人民裁判と今言われておりますけれども、そういう鬪争というものが行われて来たのであります。
この収容所においても営倉に十五日間入れられました翌二十二年の四月一日スーチヤンの将校収容所に、即ち第八分所、ここに各方面からのいわゆる反動将校と共に收容されました。同年九月二十四日、約五百名が帰国し、八十八名が分離せられ、同地区の第二分所、ここに移動、再び二十三年の二月五日、スーチヤンの八分所に移動しまして、ここで以て長命中佐の指揮する一行と合流、長命中佐が長になられました。
それから民主グループの者が自由勝手に外出許可証を持つて、或いは又帰るときにどんな被服を着て、どんな靴を履いて来たか、それは反動将校のやつた、それ以上のことをやつておつたということがお分りになると思います。
下士官、暴力団、反動将校、こういうものを入れて大体力関係において三〇%から四〇%であつたと、このように考えます。一番悲惨な状態にあつたのは何にも言えない初年兵、それから満洲における応召者、こういう人達であります。