1948-02-26 第2回国会 参議院 議院運営委員会 第17号
大正八年大阪の木津川セメント曾社へ社せられ、同年友愛會へ加盟、大正九年日本勞働總同盟大阪連合會會長に就任し、昭和五年國際勞働會議へ代表鈴木文治氏の随員として出張せられ、十六年日本勞働總同盟大阪連合會の解散に伴つて同會長を辭し、二十年十一月總同盟大阪連合會長に就任し、現在就任中であります。それから二十一年八月日本勞働組合總同盟副會長に就任、現在就任中であります。
大正八年大阪の木津川セメント曾社へ社せられ、同年友愛會へ加盟、大正九年日本勞働總同盟大阪連合會會長に就任し、昭和五年國際勞働會議へ代表鈴木文治氏の随員として出張せられ、十六年日本勞働總同盟大阪連合會の解散に伴つて同會長を辭し、二十年十一月總同盟大阪連合會長に就任し、現在就任中であります。それから二十一年八月日本勞働組合總同盟副會長に就任、現在就任中であります。
二十年も前からこれが問題になつて、當時の日本の組織率は、はるかに今日よりも下であつたにかかわらず、一般の勞働者の利害を代表する者をもつて勞働代表とすべしというような聲があり、經營者側からも、そのときに桝本卯平氏が第一囘の勞働代表として行つたのでありますが、これはけしからぬ、いやしくも勞働代表というものは、組織勞働者から選ぶべきであるという、いわゆる勞働者側の意見が通つて、まだ組織率の非常に低かつた友愛會