1953-07-02 第16回国会 参議院 厚生委員会 第7号
それでは私からちよつと広瀬参事官にお尋ねしますが、丁度五十一年でしたか、五十一年の一月に私ローマに行つたことがあります。そのときに全国の戦犯の遺家族からのローマ法王への嘆願書を千通くらい私ども持つて行つたことがあるのです。
それでは私からちよつと広瀬参事官にお尋ねしますが、丁度五十一年でしたか、五十一年の一月に私ローマに行つたことがあります。そのときに全国の戦犯の遺家族からのローマ法王への嘆願書を千通くらい私ども持つて行つたことがあるのです。
道子君 委員 榊原 亨君 中山 壽彦君 西岡 ハル君 横山 フク君 林 了君 廣瀬 久忠君 竹中 勝男君 山下 義信君 有馬 英二君 政府委員 外務政務次官 小滝 彬君 外務参事官
これまでの経緯、又見通しにつきましては、詳細は又この係りであります広瀬外務省参事官から説明して頂きたいと考えますが、今度死刑から無期になるのが大体五十七名、それから全部許してもらつて特赦を受ける者が五十一名と、百八名ということになついてるのは御承知の通りだと思います。これにつきましては年内に成るべく早く帰すということでありますが、はつきりしたその時日はまだわかつておりません。
池田正之輔君 麻生太賀吉君 増田甲子七君 岡田 勢一君 喜多壯一郎君 須磨彌吉郎君 穗積 七郎君 加藤 勘十君 松田竹千代君 大橋 忠一君 出席国務大臣 外 務 大 臣 岡崎 勝男君 出席政府委員 外務事務官 (大臣官房長) 大江 晃君 外務省参事官
理事 中川 俊思君 越智 茂君 加藤鐐五郎君 田中 元君 寺島隆太郎君 安井 大吉君 中野 四郎君 萩元たけ子君 杉山元治郎君 有田 八郎君 出席国務大臣 厚 生 大 臣 山縣 勝見君 出席政府委員 外務事務官 (大臣官房長) 大江 晃君 外務参事官
理事 戸叶 里子君 理事 池田正之輔君 麻生太賀吉君 福井 勇君 増田甲子七君 岡田 勢一君 喜多壯一郎君 須磨彌吉郎君 帆足 計君 穗積 七郎君 加藤 勘十君 松田竹千代君 大橋 忠一君 出席国務大臣 外 務 大 臣 岡崎 勝男君 出席政府委員 外務省参事官
理事 田中 稔男君 理事 戸叶 里子君 理事 池田正之輔君 麻生太賀吉君 金光 庸夫君 増田甲子七君 喜多壯一郎君 須磨彌吉郎君 帆足 計君 穗積 七郎君 加藤 勘十君 西尾 末廣君 大橋 忠一君 出席国務大臣 外 務 大 臣 岡崎 勝男君 出席政府委員 外務省参事官
忠一君 出席国務大臣 外 務 大 臣 岡崎 勝男君 国 務 大 臣 木村篤太郎君 出席政府委員 保安政務次官 前田 正男君 保安庁次長 増原 恵吉君 保安庁長官官房 長 上村健太郎君 外務事務官 (大臣官房長) 大江 晃君 外務省参事官
上原 正吉君 長島 銀藏君 竹下 豐次君 委員 井上 知治君 白波瀬米吉君 矢嶋 三義君 松原 一彦君 野本 品吉君 政府委員 内閣官房長官 福永 健司君 外務大臣官房長 大江 晃君 外務省参事官
池田正之輔君 福井 勇君 増田甲子七君 岡田 勢一君 喜多壯一郎君 須磨彌吉郎君 帆足 計君 穗積 七郎君 大橋 忠一君 出席国務大臣 外 務 大 臣 岡崎 勝男君 出席政府委員 公安調査庁次長 高橋 一郎君 (外務大臣官房 審議室付) 外務省参事官
この点につきましては、濠州側に対しても申入れはやつておりますけれども、松本参考人も触れられましたように、また広瀬参事官も触れられましたように、濠州における対日感情というものの好転がまだ望まれませんので、問題は、やはり一般的な関係が緩和されない限りは、少しずつこれを改善するほかは道がないのではないかと思われます。
○栗山委員長 次に島参事官。
監察部は昨年八月の新機構発足と共に、同年九月乃至十二月の第一期監察業務計画を立て、爾後毎四半期ごとに順次監察業務計画を更新する方針をとつており、全国同一目標を監察の対象として、中央における五人の監察参事官がそれぞれ各省を分担し、その指揮下に管区監察局、地方監察局の担当部課が現物監察を実施しているという方式をとつているのでありますが、第一次監察計画といたしましては、(一)行政運営の適正化を目標とする監察
窪谷 直光君 保安庁装備局長 中村 卓君 大蔵政務次官 愛知 揆一君 大蔵事務官 (主税局税関部 長) 北島 武雄君 引揚援護庁長官 木村忠二郎君 委員外の出席者 議 員 佐藤洋之助君 総理府事務官 (大臣官房審議 室参事官
上村健太郎君 保安庁保安局長 山田 誠君 保安庁経理局長 窪谷 直光君 保安庁装備局長 中村 卓君 大蔵政務次官 愛知 揆一君 大蔵事務官 (主税局税関部 長) 北島 武雄君 委員外の出席者 総理府事務官 (大臣官房審議 室参事官
そこで、あなたは、おやめになつてから、商工省の参事官かあるいは終連の方にまわつたようですが、先ほど中野委員から、ダイヤのことに対してその後何かなかつたかというお尋ねがあつたようですが、あなたは一回宮内省関係のお下渡しになつたダイヤのことを聞かれたが、あとは全然ないということですが、あとでダイヤを扱われた方々から、そのダイヤのことは一回も相談を受けたことはないのですか、これは大事なことですから、もう一回
それから、私は、商工省になりましたときに商工参事官となり、また終戦連絡事務の方に移りましたので、その後のことは存じませんけれども、終戦後それまでの間は、軍需省でこのダイヤは所管しておつたと考えております。
十七年五月商工省の企業局の整備課長、十八年六月大臣官房秘書課長兼文書課長、十八年十一月軍需大臣官房秘書課長、二十年三月軍需省機械局長、二十年八月商工参事官になりまして、終戦連絡部副部長、次いで終戦連絡部長になり、二十年十一月内閣参事官、二十一年八月経済安定本部第一部副部長、二十一年十二月経済安定本部第一部長、二十二年五月依願退官、二十二年六月株式会社東京計器製作所取締役会長に就任、二十三年十二月株式会社東京計器製作所
それから参事官のときにはタバコ入れの大きいの、書記官のときにはタバコ入れの小さいの。それから領事のときは大体カフス・ボタン。私はそれを全部持つているのです。そして、ああ、あそこは公使だつたな、というようなじようだんを——こんなところでこんなじようだんを言つてははなはだ相済みませんが、そんなことでした。ところがそれが大間違いなんです。
当時、三月になりまして、行政協議会で地方行政組織を強化しなければならぬという問題が出て参りまして、私は三月十日付で、大阪の行政事務局の副参事官に転任を命ぜられまして、その間事務官は一箇月くらい空席でございます。従いまして私は、私の持つておつた事務書類は全部平賀技官に渡しまして、後任の事務官がきまれば渡してもらいたいということで転任したわけであります。
それから大阪総監府の参事官に任命されました。その後終戦後、昭和二十一年に大阪商工局の総務課長、それから商工課長を命ぜられまして、その後商工省の総務局賠償実施部保全課長、特許庁奨励課長を経まして、機械局、電気通信機械局有線課長、現在仙台通産局の総務部長を命ぜられております。
去年の暮れに、元米国の駐日大使館の参事官をしておつたユージーン・ドーマンという人が来朝しまして、その人が意見を発表した中に、こういうことを言つておるのであります。日本がかつて鎖国時代から抜け出して、資源乏しくしてわずか数十年の間に、世界の一大貿易国となつたのには、二つの理由がある。その第一は、貿易のよいリーダーがいたことである。
それ以外に館長が不在の場合に、その次席の参事官ないしは一等書記官が館長の代理をいたしますので、従つて出費も次席の場合よりはふえるというので、館長代理加俸というものを出しております。 それから次に経費等種々の都合によりまして、公館を開設しませんで、一人の大使が隣国の大使を兼任をするという場合がございます。そして兼任地に行つた場合に兼任地加俸というものを出しておる次第でございます。
第二の点でありますが、これは先ほど申上げましたグルー大使の時代に参事官でありましたかをしておりましたドユーマン氏の手紙が総理のほうへ廻つて参りました際に、総理から時の博物館長にこれが交付せられまして、博物館長の意見を求められたのであります。これに対しましては先ほども申上げましたように、まだその時期でないということを申しましたのに対して、総理はこれを了としておられましたのであります。