1983-05-19 第98回国会 衆議院 社会労働委員会 第10号
私はそれ以外に、たとえば検査とか、健康管理とか、特別養護老人ホームとか、原爆病院とか、あるいは検査センターとか、放影研とか、あるいはある場合には縦割りですけれども、広島、長崎の大学の原爆医学研究所とか、さらに広げて言えば、稲毛にある科学技術庁の放医研とか、たくさんあるわけですね。
私はそれ以外に、たとえば検査とか、健康管理とか、特別養護老人ホームとか、原爆病院とか、あるいは検査センターとか、放影研とか、あるいはある場合には縦割りですけれども、広島、長崎の大学の原爆医学研究所とか、さらに広げて言えば、稲毛にある科学技術庁の放医研とか、たくさんあるわけですね。
また他の広島、長崎大学の原爆医学研究所、また日赤原爆病院、さらに科学技術庁の放射線総合医学研究所、文部省の遺伝研、こういったところとのネットワークにつきましては、そのシステムの合理化、適正化について現在協議を進めているところでございます。
原爆医学研究所をつくるときに森戸学長は、私にそのような夢のようなことを言ってくれるなということでございましたが、ついに当時の文部当局と大蔵当局を口説き落として、そして私の乏しい資料ではありまするが、その資料に基づいて予算を格づけすることができ、あの放射能研究機関ができたのでございます。八部門がここに成立したのでございます。
いま小笠原先生からお話がございましたように、私ども原爆医学標本センター、これは広島大学。それからもう一つ原爆医学資料センター、これは長崎大学でございます。いずれもまだ十分だとは思っておりません。
○国務大臣(斎藤昇君) ただいま御質問になりました米国の病理学研究所の剖検資料、登録番号一五八九三〇、これが一九六九年にこの剖検資料はこちらのほうに返還をされまして、これにつきましては、御承知のABCCのダーリング所長等も非常に努力をいたしまして、再三交渉を重ねました結果、六九年にこちらに返還をされまして、ただいま広島大学医学部の原爆医学標本センターに保管されておりますので、近く外務省と話をいたしまして
ただ、広島大学の医学部に原爆医学の研究所がございます。また長崎大学にもそうしたものがございます。したがいまして、そこには、国立大学でございますが、永久的に文部本省から貸与しておこう。それから、何といいましても広島市と長崎市、これは被写体が広島、長崎でございます。また市民感情もいろいろございましょう。それから、市長さん等の御要望も非常に強うございます。
これは毎年広島、長崎で、原爆医学研究会を厚生省と地元の県との主催で催しまして、毎年その研究成果も、りっぱな冊子にいたしまして内外に交換するという形でやっておりまして、これが重い症状を現在有しておる方の治療をやりつつ、その治療結果等の再検討を通じまして治療法の研究をいたしておる。同時に、発病しておる症状の類別あるいは程度というようなこともわかってくるわけであります。
せめて日本の原爆医学を確立して、もつて将来の惨禍を防止し、その万全策を立てるべきでないかと考えます。少くとも三度原爆の洗礼を受けて、今度の不幸の究明についてアメリカから協力があるという話はございますけれども、しかしこの恐るべき原爆の研究につきましては、全力を尽して日本の医者が指導権を握つて、世界に貢献するようにしたいと私は考えておりますが、外相の決意を伺いたいと思います。