2017-02-08 第193回国会 衆議院 予算委員会 第9号
ただ、その後、明治五十年の後は、御承知のとおり、寺内内閣の後は原敬首相が誕生している、佐藤栄作首相の後は田中角栄首相が誕生している、いずれにしても奥羽越列藩同盟側に総理が移っているわけでありますから、ポスト安倍も、長州ではなくて奥羽越列藩同盟の地域ということであれば官房長官、石破先生には申しわけありませんが、私も対象者であるのかなと。 私自身は、一九六八年に生まれています。ちょうど明治百年。
ただ、その後、明治五十年の後は、御承知のとおり、寺内内閣の後は原敬首相が誕生している、佐藤栄作首相の後は田中角栄首相が誕生している、いずれにしても奥羽越列藩同盟側に総理が移っているわけでありますから、ポスト安倍も、長州ではなくて奥羽越列藩同盟の地域ということであれば官房長官、石破先生には申しわけありませんが、私も対象者であるのかなと。 私自身は、一九六八年に生まれています。ちょうど明治百年。
そして、残念ながら施行から十五年で戦時を理由に停止されたわけでございますが、平民宰相原敬首相は、陪審制度こそ人民の司法への信頼を築き、政党政治発展の不可欠の制度であると確信をして制度の定着に全力を挙げたと聞いております。
我が国最初の平民宰相、原敬首相は、枢密院での陪審法案審議の中で、「憲法実施後三十年を経たる今日に於ては、司法制度に国民を参与せしむるは当然の事なり。」「此の際陪審法を設けざれば、国家の前進の為に害多し。人民をして司法に信用を置かしめ、上下の阻隔と杜絶怨嗟の勢を絶ちたし。」と述べました。
そのときに、これはもう明らかに、当時政友会の総裁として原敬首相は、与党に絶対有利な小選挙区制を実現するために心血を注ぎ、その結果、その小選挙区制のもとで、これは大正八年、一九一九年に導入されましたけれども、次の選挙で政友会が大勝した。
その過程では、例えば原敬首相が小選挙区制を導入して政友会が大勝した、そのときは猛烈な金権選挙として非難されたという歴史的事実がありますね。
それから、もう少し勘ぐった言い方をさせていただきますと、大正八年に原敬内閣のときにこの陪審制度を計画したけれども、これが不発に終わって、そして原敬首相が暗殺をされた。その後 にこの制度というものが衆議院で法律が成立しておる。何だか、やはり日本の国に、そういう民衆の英知を吸収するというものに対して、大変な反対的な動きというものが作用しておったのではないか。