1990-03-29 第118回国会 参議院 建設委員会 第2号
既にかなり終了を見ているところの部分もございますけれども、例えば飛鳥浄御原宮跡という宮跡がございますし、あるいはまた御案内の飛鳥板蓋宮跡、そういった宮跡等の発掘調査に関しましても目下精力的に実施はいたしてございますけれども、宮跡等につきましては、御案内のとおり遺跡の面積が何分にも広大だということもございましてなお引き続き調査を必要とする部分があると聞き及んでおるところでございます。
既にかなり終了を見ているところの部分もございますけれども、例えば飛鳥浄御原宮跡という宮跡がございますし、あるいはまた御案内の飛鳥板蓋宮跡、そういった宮跡等の発掘調査に関しましても目下精力的に実施はいたしてございますけれども、宮跡等につきましては、御案内のとおり遺跡の面積が何分にも広大だということもございましてなお引き続き調査を必要とする部分があると聞き及んでおるところでございます。
さらに、大化の改新の舞台になったと言われております飛鳥板蓋宮の跡と伝えられる遺跡がございますし、それからまた飛鳥浄御原宮に関係いたします飛鳥浄御原の推定地ではないかと言われます飛鳥水落遺跡あるいは飛鳥稲淵宮殿など、ちょうど律令国家形成期に関係する宮殿寺院跡あるいは古墳というようなものがこの地区に濃厚に存在しているのが特徴でございます。
○説明員(山中昌裕君) 飛鳥の地域におきます文化財として後世にまで史跡に指定して残す、こういう必要がある重要な遺跡については国と県と村が協力して調査しておりますが、現在までのところ、大きなものを例に挙げて申しますと、国の研究所で学術調査いたしましたのは、飛鳥浄御原宮跡と推定されております土地とか、あるいは大官大寺の跡とか十四の遺跡がございます。
この点につきましても、私は、なおそこにかつてありましたいろいろの建築物、そういうものには国史の記載と該当して考えるという一つの道順がございますが、ただいまのところでは、私たちは飛鳥板蓋宮とか浄御原宮とかいうふうな国史の記載と対照しながら考えておりますけれども、なお、これは断定をいたしますには慎重な考慮を要すると思います。 飛鳥の調査は、いま飛鳥地域全体にわたってまず発掘調査を進めております。
現在までのところ、明日香村に関係するもので申し上げますと、たとえば高松塚古墳とか石舞台古墳、川原寺跡、飛鳥寺跡、大官大寺跡、飛鳥板蓋宮と伝えられる宮跡、それから、飛鳥浄御原宮跡推定地の一部ではないかと言われている飛鳥水落遺跡とか飛鳥稲淵宮殿など十四件の相当重要な遺跡が、中には部分的でございますけれども出てきておりまして、これらは国の史跡に指定され、そのうち高松塚古墳と石舞台古墳につきましては、特別史跡
そういうことで、できるだけ私どもも時間の短縮ということを考えておりますが、お話に出ました飛鳥浄御原宮跡の問題はちょうど史跡に指定する重要な遺構が出てまいってしまったわけでございます。
特に昭和四十五年の閣議決定以来、飛鳥地区に重点を注いでまいりまして、たとえば奈良国立文化財研究所の学術調査として申しますと、飛鳥浄御原宮跡の推定地というものを調査し、あるいは四十八年以来、最も古い四大官寺の一つであります大官大寺の調査、こういった十四の遺跡について今日まで調査を続けてきております。
現にたとえば伝承浄御原宮跡で家を建てようと思った人が予算二千万円ぐらいで建てようと思ったのが、なかなかに許可がおりない。結局は明日香村の旧役場跡に代替地を見つけてもらって、そこへ移った。家はでき上がりましたけれども、この間にずいぶん日がたちまして二千万の予算の家が三千万かかった。こういう現実的な損害を生じております。
「明日香村は飛鳥時代の政治・文化の中心であった飛鳥諸京・飛鳥板蓋宮・飛鳥川原宮・飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮などの置かれたところであります。欽明・天武・持統・文武の天皇陵や石舞台や高松塚などの古墳をはじめ、飛鳥寺川原寺・橘寺・大宮大寺など多くの寺院・史跡や埋蔵文化財がのこされ、また万葉の飛鳥川・雷の丘・南渕山なども、むかしのままの姿で、古代のいぶきを伝えています。」
歴史的に見ますと、先ほどあげました早稲田大学の「二十一世紀の日本」におけるレポートでは、日本はまず耶馬台国といわれたころから、九州から始まりまして、飛鳥浄御原宮、藤原宮、平城宮あるいは難波大隅宮、平安宮、志賀大津宮といったところは大体十世紀までの首都でありまして、大体近畿地方を中心にしておった。
それからまた、その後この雷の丘のすぐそばで、飛鳥浄御原宮と書いたところでつい最近、本年に入りましてから宅地造成が行なわれました。それの事前の調査をいたしましたところ、そこからもやはり掘っ立て柱の建物が出てまいりました。それから和銅くらいの鬼がわらと、それから軒を飾ったかわら類が出てまいりました。
なお、今後どういうものがあるかということでございますが、たとえば板蓋宮、これはいま発掘調査が行なわれておりますが、そのところ、あるいは飛鳥浄御原宮、それから小墾田宮、これもいま調査をいたしております。
その最も重要なものは宮あとであり、当時の宮は天皇一代の間に少なくとも一回は移りかわったというので、この地に営まれた宮は、推古天皇小治田宮と呼びますが、それから皇極天皇の板蓋宮、それから天武天皇の浄御原宮など、総数二十カ所にのぼっているのであります。