2016-12-12 第192回国会 衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第3号
また、一九四五年の八月十八日には、占守島に、ポツダム宣言を日本が受諾した後にソ連が攻め込んできて、そして今の北方四島もソ連にとられたというふうな客観的事実がこれまたございます。 近年におきましては、ロシアがウクライナの一部を実効支配した、武力によって現状変更を行ったという、これまた客観的事実もございます。
また、一九四五年の八月十八日には、占守島に、ポツダム宣言を日本が受諾した後にソ連が攻め込んできて、そして今の北方四島もソ連にとられたというふうな客観的事実がこれまたございます。 近年におきましては、ロシアがウクライナの一部を実効支配した、武力によって現状変更を行ったという、これまた客観的事実もございます。
本来は、占守海峡と書いてありますけれども、ここから南の島、大きな島だけで約十八ある。これは放棄させられたわけです。今私たちが問題としているのは、まさにこの北方四島、我が国固有の領土であるところをいかに日本に返還させるかというところだと思います。 資料四をごらんください。資料の四は、これまでの平和条約締結に係る諸文書、諸合意でございます。 この中でも特に大事なものは、東京宣言であります。
○猪口邦子君 そのとおりでありまして、ソ連軍は、八月十八日からカムチャッカ半島から占守島にずっと下りてきます。それで、私が今回行った択捉島、ここにソ連軍が到達したのは一九四五年八月二十八日からです。 今回、私は紗那というところに行ったんですけれども、そこには日本の郵便局が廃墟となっています。その八月二十八日午前十一時、この郵便局と隣の留別局との交信が不通となりました。回線が不通となったんですね。
同条約は、我が国がロシアから譲り受ける島として、択捉以北の占守島から得撫島までの十八の島々の名を列挙しております。つまりは、択捉以南はもう既に我が国のものでありましたから、それよりも以北の十八の島々を列挙した条約になっております。これらの事実は、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞諸島の北方四島が一度として他国の領土になったことがないことを示しております。
それから、尖閣の問題に関連しても、尖閣を中国が占守していく一つの手法として、韓国の竹島問題をモデルにしています。これは、一九五三年、四年に民間人が竹島に上陸をしました。その後、韓国の海洋警察隊が今駐屯しています。それと同じ方法を取るべきだというふうに中国側は認識しています。 そういう意味では、今、中国と韓国とそれからロシアですね、そして一番喜んでいるのは多分北朝鮮だと思います。
○笠井委員 それでは、歴史的事実を確認したいと思うんですが、千島列島は北端の占守から南端の国後までの諸島を指すわけであります。幕末から明治にかけての日露間の平和的な外交交渉におきましては、一八五五年の日露通好条約、それから一八七五年の樺太千島交換条約を経て、全千島が日本の領土と確定されました。
これはいろいろ話がありまして、北方領土関係の登記簿というのは、国後、択捉それから色丹、得撫、占守、歯舞群島を含めて、土地でいうと百八十二冊、八千百四十八筆、建物で七十一冊、千九百十個、それで台帳は、土地で七十三冊、家屋で二十六冊、合わせて九十九冊と。
歴史にこだわらないということは、さっきちょっと説明しましたけれども、日露通好条約、あれは国際条約ですよ、国際法的にも、それから日ソ不可侵条約を破棄して、一方的に破棄してソ満国境を越えてきたとか、それから、その当時の千島列島の最北端に占守島というのがありますけれども、そこにロシア軍が南下してきたのはポツダム宣言を受諾した三日後ですよね。八月十八日ですよ。
そして、国後、択捉だけではなくて、占守島まで含む北千島全体が、これは侵略によって得た領土ではありませんから返還の対象になるべきだ、こういうふうに考えているのであります。 このことは改めて議論をすることもあろうかと思いますが、この点だけ言っておきますが、委員長にお願いしたいんですが、この問題については外務省は調べる考えはないと言う。私は、そういうことでは絶対だめだと思います。
北方領土を日本の行政区域とするものでありますが、この別表には現在も北方四島に加えて、北方領土以東の千島列島の各部、すなわち得撫郡、新知郡、占守郡の三郡が明記されております。 御承知のように、この北方四島以東の千島列島は残念ながら一九五一年のサンフランシスコ条約において放棄したのがこれまでの政府の統一見解で明確であります。
御指摘のとおり、北海道の支庁設置条例中、この支庁の一つであります根室支庁の所管区域の中に北方四島以東の得撫郡、新知郡、占守郡が含められておりますが、同区域は御案内のように北海道の支庁設置条例附則におきまして、当分の間これを適用しないとされているところでありまして、現在は同条例の適用外とされているところであります。
杉野、佐藤両旅団長のもとに八月十八日の午後四時ということで三宅坂の陸軍参謀本部からもう停戦命令が出ておりましたものですから、占守島第九十一師団の堤不夾貴中将はまさかその後に攻撃があると思っていなかったのでございますが、慌てたソ連軍は、戦争が済んで三日目に極東軍司令官のワシレフスキーがカムチャツカ半島にいたグネチコという将軍に対して攻撃命令を天皇の玉音放送の三時間後に発しております。
八月十八日に占守島に侵攻し、九月三日に歯舞、色丹まで占領した。まさにそのまま居座っている姿が今日あるわけであります。そしてきのうですか、渡辺外務大臣が退院された、まだ十分回復されておられない身をもってモスクワまで行かれてエリツィン大統領と会談をされた。 これは外務省に伺いますけれども、九月十三日はエリツィン大統領が日本に見える、まさに正念場のときを迎えつつある。
その千島列島が入ってなかったことを激怒したスターリンがトルーマンに手紙を出してやりとりをしていますが、らちが明かないものですから、八月の十八日の午前二時半に占守島に攻撃をかけてきました。
○政府委員(岸本正裕君) 樺太におきます遺骨収集につきましては、昨年五月にソ連政府の原則的合意を初めて取りつけたわけでございまして、ソ連側が収集した樺太の旧国境付近の遺骨十六柱並びに北千島の旧占守島の遺骨七柱の引き取りを厚生省として九月に行ったところでございます。その際、樺太での現地調査及びサハリン州政府関係者との打ち合わせも実施をいたしました。
○柳井政府委員 ただいまお述べになりました一八五五年の日露通好条約によりまして、北方四島が我が国の固有の領土であるということが当時のロシアによって認められたものでございまして、歴史的に固有の領土であるということは明らかでございますし、また、ただいま御指摘ございましたように、得撫以北の占守に至る十八島につきましては、一八七五年の樺太・千島交換条約によりまして平和的に我が国の領土になったという点、御指摘
平和条約の方は我が国の全権も参加をしてきておるものでございますが、ただ、問題は、千島列島というものはどの範囲かということについていろいろ議論があり、私は明治八年の千島樺太交換条約にもはっきりと得撫島から占守島まで十八の島と、十八全部、島の名前を挙げて日ソ両国できちっと確定しておる文書等もございますから、そういったことを踏まえて四島返還の理論的前提根拠にしておる、こういう受けとめ方です。
ただ、明治八年の千島樺太交換条約というのによれば、千島列島とは得撫島から占守島まで十八の島を言うといって、十八の島の名前がずっとその交換条約に書いてあるんですから、それが、北方四島が日本固有の領土であって千島列島と言われるものに属していないんだということの根拠に私は考えておるわけであります。
事実、不法にも八月十八日占守島に攻め込んできてというような歴史的事実を知らない連中もいっぱいいるわけでありまして、これからいろいろな交流をしながら、こういう事実関係についての認識をさせる。
私どもが水難参謀から伺っております話、またその他の話からいたしますと、ソ連が南下を開始いたしまして占守島に参りましたのが八月の十八日でございます。それで、得撫まで参りまして、そこで一回反転をするわけでございます。それが八月の二十七日だったと承知しております。
もし仮にそうなったとしても、私どもは、ロシア共和国のみならず、これはソ連の領土ではなくて日本の固有の領土だという立場できょうまで物を言い続けてきたつもりでございますから、例えば私どもの知識の中にあります明治八年の千島・樺太交換条約で得撫島から占守島まで十八の島を千島列島と言うんだというような、ああいった旧取り決めその他のようなものを具体的にいろいろ提示して、誠意を持ってロシア共和国ともお話し合いを、