2021-02-02 第204回国会 参議院 本会議 第5号
雪に耐えて梅花麗し、明治維新の志士、西郷南洲翁が、維新後の激動の時代を困難に負けることなく強い心を持って生き抜いてほしいと、おいの政直に詠んで送ったものであります。この言葉を総理にお贈りいたします。 総理、体に気を付けて国民のために頑張っていただきたい。先日も、野党の先生からエールが送られておられました。我々も全力で支えてまいりますことをお誓い申し上げ、終わります。
雪に耐えて梅花麗し、明治維新の志士、西郷南洲翁が、維新後の激動の時代を困難に負けることなく強い心を持って生き抜いてほしいと、おいの政直に詠んで送ったものであります。この言葉を総理にお贈りいたします。 総理、体に気を付けて国民のために頑張っていただきたい。先日も、野党の先生からエールが送られておられました。我々も全力で支えてまいりますことをお誓い申し上げ、終わります。
その西郷隆盛公の西郷南洲翁遺訓というものがございます。その中に、政の大体は文を興し武を振るい農を励ますの三つにあるという言葉がございます。文というのは教育、教育振興が大事だということ。武を振るいというのは、やはり安全保障、当時は軍隊ということで、その整備が肝要であるということ。そして三つ目に農を励ます、農業が非常に国の根幹として大切であるということ。
そういう地域の豊かな自然や暮らし、人と人との温かなつながりを情報番組、ドラマなどで、さまざまなジャンルの番組で描きながら、全国に、世界に向けて発信していこう、こういうNHKの方針もあるわけでありますが、地域活性化にも生かしていくためにも、地元の南洲翁ゆかりの地の現地撮影といいますか現地ロケというのを期待もいたしておりますし、ぜひそのことを実現していただきたい、このように思っているわけでございますが、
我が郷里の誇りであります西郷隆盛公がいろいろな機会に語られたことが記録され、西郷隆盛の死後に書物として世に出された、西郷南洲翁遺訓として今日に伝えられております。 その一節に、政の大体は、文を興し、武を振るい、農を励ますの三つにあり、この三つのものを後にして他を先にすることは更になしという教えであります。
さて、柳田法務大臣は鹿児島県御出身で鶴丸高校御出身だそうですが、座右の銘は南洲翁が好んで揮毫した敬天愛人だそうです。私もこの言葉が好きで、人生の指針としています。大西郷のように、大臣も天命の自覚と国民に対する慈愛でもって法務大臣という重責を担っていらっしゃるとそんたくいたしまして、質問をさせていただきます。よろしくお願いします。
(資料提示) これは南洲翁遺訓ということで、西郷隆盛が言ったことを旧庄内藩の藩士がこれはいいということを書き残したと言われております。今回の質問にも関連しますので、しばらくここに置かせていただきます。
○鳩山内閣総理大臣 西郷隆盛、南洲翁の遺訓、命も要らず名も要らず、まさにそのとおりの覚悟を持って政治家として臨むべきであると思っておりまして、当然のことながら、政治家、これは今このポストであるからどうのということではありません、政治家である以上、すべてみんなが同じ覚悟を持って臨まなければならない、国民に対する大きな責務を負っている、そのように考えております。
例えば、西郷南洲翁が遺訓として残した言葉の中に、人を相手にせず天を相手にせよ、天を相手にしておのれを尽くして人をとがめず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。こういう言葉は非常に日本人に響く言葉だと私は思うわけであります。 この人為性というものを超える、例えば経済の問題にしても、経済合理性がすべてだみたいなことを今言われますけれども、人の心がどこに行ったんだと、今の経済の議論の中で。
西郷南洲翁遺訓にある節義廉恥の心、すなわち、節度を守って正義を重んじる心と恥を知る心をぜひ西村真悟君に取り戻していただきたいと念願し、自由民主党並びに公明党を代表しての私の賛成討論といたします。 以上です。
西郷先生に、一日会えば一日ほれ、三日会えば三日ほれたと言って、自分だけ一人最後まで南洲翁とともに、二十九歳の若さで自刃したのであります。墓地も鹿児島に今でも一緒に並んでおります。 同じ中津の福沢諭吉が、どちらかというと西洋かぶれして、西洋文明の紹介をしたことによって、かえって日本伝統の武士道や大和魂、日本文化の衰退を彼は憂えたのであります。戦後の日本とダブって見えるところもあります。
昭和五十三年、在職二十五年表彰の栄に浴された先生は、この本会議場で、郷土の偉人西郷南洲翁の遺訓「廟堂に立ちて政を為すは天の道を行うものなれば些も私を挾みては相済まぬもの也」をお引きになり、「これからも一切の私心を捨て、自分の人生はこれでよかった、悔いるところはないと、莞爾として死ねる道を歩き続けたいと思います」と語られました。
郷土の偉人西郷南洲翁の遺訓集は「廟堂に立ちて政を為すは天の道を行うものなれば些も私を挾みては相済まぬもの也」と説き起こしておられますが、この言葉を座右の銘とし、政治家たるおのれの覚悟としてまいったつもりであります。これからも、一切の私心を捨て、自分の人生はこれでよかった、悔いるところはないと、莞爾として死ねる道を歩き続けたいと思います。
私も白髪を加え、大臣も少しお太りになられ、貫禄がおつきになって、御先代の敬天愛人の南洲翁の面影をほうふつとさせられるお姿を私は拝見いたしまして、御同慶の至りでございます。 緑風会時代から、西郷大臣の思考方法が冷静で、そうして非常に公正であることは、私よく存じておりますので、敬意を表しつつ御質問申し上げますが、要点は二つでございます。
西郷南洲翁の率いる鹿児島兵は、できたばかりの軍隊、刀を持ったこともない、鉄砲を見たこともない新しい軍隊はおそれません。しかし、さむらい上がりであったこれら警視庁警視隊の九千五百人に対しては脅威を感じております。それが事実となってあらわれました。あの頑強な田原坂の戦いでは、どうしても落とせない。軍隊のほうが落とせないので、警視隊の中から百人余りの抜刀隊が組織されて、薩摩の陣営に切り込みました。
南洲翁は子孫のために美田を買わぬと言われましたが、こういう事態になつたわけであります。我々参議院が第二院としての慎重審議をする使命を十分果していましたならば、今日のような事態は起らなかつたことを思いますと、第十九国会における昭和二十九年度予算に対する我々の責任は極めて重大なものを痛感せざるを得ないわけであります。
(「その通り」と呼ぶ者あり)曾て西郷南洲翁が明治維新に人気があつたのは、絣の着物を着て、六疊一間で、繁栄を極める生活をしなかつたところに西郷南洲翁の偉大さがあつたのであります。(「小川友三はどうだ」と呼ぶ者あり)税率が下らない。